第17話 英昌(3)



 英昌は愕然とした。何を言ってるんだコイツは。気持ち悪くないのか。一つだけ曲がってるんだぞ? 他は曲がってないのに、吉村の名札だけ。15〜20度。狙ったかのように、右に。

「他には? ないなら、あなたがこの期間にアドバイスしたのは、吉村の名札が曲がっていることだけでいいですか?」

「ぷっ」

 吉村が思わず吹き出したのを、英昌は見逃さなかった。

 こいつ……松添は同じく無能だから、気づかないだけで、他は違うんだぞ。室長だって、次長だって、特に部長だって気になっているんだ。前に部長が名札の位置を直しているところも目撃した。それで、室長も次長にも指示しているところも。そうか、こいつらはその事を知らないんだ。あまりにも、無知だから。無知で、無能。本当にどうしようもないヤツらだ。

「大山さん。本当に疑問なんですよ。あなた、今、会社でなにをやってるんですか?」

「なにをって、今ちょうどこのプロジェクトを」

「やってないじゃないですか。じゃ、ここにあなたがやった資料を見せてくださいよ」

「……今、作成中なので」

「途中経過でいいです」

「完成されてない資料を見て、ダメ出ししようと言うんですか? それは、係長。ズルくないですか?」

「ダメ出しではなく進捗管理です。俺はあなたの上司ですから、あなたの仕事を確認させてください」

「……わかりました」

 都合のいい時だけ、上司面して。本当にどうしようもないヤツだ。まあ、いい。未完成と言っても、例え、こいつらに見せてもまったく問題ないだろう。

「なんですか、これは?」

 松添が資料に目を通しながら怪訝な表情を浮かべる。

「吉村君が展開した議事録を修正したものです。まったく大変でしたよ。誤変換なんて、当たり前。改行も文字サイズも適当。こんな資料、本来だったら表に出せませんよ」

「……っ、この案件はもう終わった議事録じゃないですか!」

「議事録は後に残りますから。こうやって、私が修正をかけてあげてたんですよ。後で、振り返りがしやすいように」

「……」

 松添は何も言わずに黙っている。どうやら、自分の無能を思い知ったらしい。しかし、今更謝罪したところで、もう許す気はない。こいつに辱められたことは、もう記憶に焼きついた。金輪際、英昌は目の前の上司を無能だと見なすことにした。

「いや。これ、本当にあなたがやってることなんですか?」

「わかります? 誤字脱字もなく、字体だって揃っている。改行も、段落のバランスも問題ないレベルでしょう? まあ、もう2、3回見直せば、見せれるレベルにはなるでしょうね。他の議事録も今、修正してるので――」

「これ、なんの意味があるんですか?」

「……えっ?」

「議事録なんて、本質的に合ってれば問題ないんですよ? 内容さえ伴っていればそれでいいじゃないですか。あんた、こんなことにずっと時間費やしてたんですか?」

「……それは」

「費用対効果って知ってます? 字体揃えりゃ金が効果が出るんですか? 誤字を指摘すれば、仕事が効率化されるんですか? それは、ただあんたが気持ちいいだけでなんの効果も生んでないんですよ」

 松添は大きな声で怒鳴る。

「……すいませんが、今日は用事があるので失礼します」

「はぁ? あんた、今の状況わかってるのか?」

「……」

 わかってる。いや、これ以上、この無能と話しているのが無駄だと言うことがわかった。自分は別に仕事人間ではない。むしろ、こいつらのように無駄な時間を浪費して会社に居残るほど無能ではない。

「もう、いい。わかりましたよ。帰っていいです。あんたなんて、いてもいなくても、同じなんだ」

「……失礼します」

 英昌はお辞儀もせず、聞こえるか聞こえないかのような声でつぶやき、会社を去る。


 午後7時。ちょうど、帰りのスイーツ屋で、オーダーメイドのケーキを購入した。英昌が納得できるような店はなかなかなく、結局、6軒ハシゴした。7月7日。44歳の誕生日。これだけ数字が揃う瞬間は、もう一生のうちに二度とない。

 この日は、特別な日だから。

「ああ、あなた。早いのね」

「どこか行くのか?」

「友達の家」

「……そうか」

 聞いてない。俺は、それを聞いてない。

「明日もいないから」

「明日? でも、明日は」

「泊まり。誕生日が明日なんだから」

「でも、あのこれ」

「なにそれ? ああ、ケーキ。ありがとうね、でもいらない。あっちでも作ってもらってるから。あなた、食べちゃってよ」

「……一人じゃ食べきれないよ」

「じゃ、捨ててよ。あんまり、食べると太っちゃうんだから。いらない」

「いらない?」

 このケーキが。これは、完璧なものだ。わざわざ、お前の好きなスイーツショップに行って、概算も内寸もすべて1ミリ単位で同じなんだ。

「あっ、いけない。また、忘れ物。そう言うことだから」

 明日。完璧なはずだった明日。特別なはずだった明日。それが、この女の無頓着で終わろうとしている。どうすればいい。いったい、どうすれば。

「じゃ、行ってくるから」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 英昌はケーキを置いて、それを見せた。

「ほら、これ。見てくれ。美味しそうだろう? せっかく、買ったんだ」

「ああ、そうね」

 !?

「ちょ……お前、なにしてるんだ?」

 美幸は指で、ケーキを刺して、ペロっとそれを舐めた。

「味は美味しいけど。なんか、スイーツ屋さんのケーキって、感じ」

「……っ」

 この完璧なケーキを。この女……


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