第15話 英昌
*
おはよう。そう声をかけたのに、声すらもかけて来なくなったので、いつからかそれを言うことはなくなった。洗面台の隣で、歯を磨いている妻、美幸を見ながら、英昌はため息をつく。
「今日は、重要な会議がある」
「……」
返事はない。しかし、悪気がないこともわかっている。美幸はすでに初老に入った顔のシワをどう誤魔化そうか。そんなことに夢中だ。
「社内のプロジェクト。5億の案件。それが、うまくいくかどうかが、今日決まる」
英昌はそうつぶやいて。美幸の歯磨き粉の残りを凝視しながら、自分の歯磨き粉を使用する。
「あー、もう。ここにも、シワできてる。やんなっちゃうわ」
不貞腐れた様子で、メイクを始める彼女を尻目に、英昌は準備を始めた。ここで、明日のことを言おうか、考える。前の年も、前の年も祝わなかった。しかし、それをやめて英昌は自室へと向かった。
いつものように、クローゼットから出すのは、7着あるスーツの真ん中。毎日実施するルーティン。この、完璧な位置。7が6になる瞬間。このシンメトリーを眺めるのが、英昌はたまらなく好きだった。
階段を降りてリビングに入り、妻が大きくしたテレビのボリュームを22にする。これも、いつも通り。
「今日は、早く帰ってくるから」
返事はない。だが、それも、いつものこと。気にしない。英昌は明日の事を思い浮かべながら表情を綻ばせる。
明日は特別な日だから。
会社に出社し、英昌は勤怠管理版の名札を裏返す。
「……またか」
吉村の名札が歪んでる。何回注意しても、直さない。ガサツで、無能。忘れ物も多いし。誤字脱字もしょっちゅうだ。
「おはようございます!」
来た。吉村は、せっかく直した名札を、また歪んだ位置に戻して裏返す。もはや、わざとやっているんじゃないかとすら思う。
「吉村君」
「あっ、はようございます」
「……」
お、すら言えないどうしようもない無能。そんなに自分の無能を晒すのが好きなのか。
「名札。毎回位置がズレているよ」
「あー、そうなんすか? 気づかなったです、すいません」
「前も、その前も、これで23回目だよ。あれは、部長も使ってらっしゃるし、君のためにもよくないと思うんだ」
「ああ、はい。ご指摘ありがとうございます。あっ、部長。おはようございます!」
「おお、おはよう。どうだ、新規プロジェクトの資料? できてるか?」
「いやー。まだ、半分ってとこですかね。とりあえず、みんなにも見てもらいたいんで、その場で意見をください」
英昌は鼻で笑った。未完成のものを、みんなに見せてどうする。しかも、それを自分から暴露して。この案件は、失敗ができないから綿密な調査と計画が必要なんだ。どうしようない、無能。英昌は心の中でそう吐き捨てた。
会議が始まった。
「おい、吉村。資料」
「はい!」
元気のよい返事をして、吉村は資料を配り始める。どうせ、取るに足らない資料だろう。いつものように、誤字・脱字が多い。なによりも、文字と文字の感覚。バランス。まったく、見るに耐えない。どうせ、ろくにチェックもしてないから。
吉村が急ぎ足で資料を配る。部長、次長、室長、係長、そして――
「……っ」
席を通り過ぎた。自分に資料が配布されなかった。慌てて、英昌は下を向きながら動揺を抑える。どうするんだ。まともに、配ることすらできないのか。みんなは、気づいているだろうか。いや、かろうじて気づいてない。英昌は代わりの似た資料をすぐに準備して、さも自分の資料があるかのように振る舞う。
「えっと、じゃあ行き渡りましたかね?」
「……っ」
阿呆が。行き渡ってない。こちらに資料が配布されていない。英昌の背中から汗が噴き出る。
「では、説明を始めます。このプロジェクトは……」
結局、そのまま吉村はプレゼンを開始した。
案の定、室長、次長、部長からことごとくダメ出しを受けた。それでも、ケロッとした顔で、メモを取りながら頷いている。
会議が終わった後、吉村を呼び止めた。
「ああ、大山さん。お疲れ様でした」
「……私の分の資料、なんで配らなかったんだ?」
「えっ、資料? 配りませんでした?」
「配らなかったよ。今、ここにないんだから」
「嘘!? そうなんですか、申し訳ない。プレゼンなんて、慣れてないから緊張してて。これです、これ」
「会議に参加した人数分用意してれば、気づくはずだろう? 簡単な引き算だよ」
「……はぁ」
「普段から、雑な行動ばかりしてるから、こう言う時に、それが出るんだよ。日々の生活をキチッと過ごしていれば、こう言う失敗はしないものだ。まったく、考えられないよ」
「いや、言ってくれればよかったじゃないですか。わざとじゃないんだから」
不貞腐れた様子を、吉村は見せる。それを、英昌は鼻で笑った。自分の至らなさを指摘したら、こうだ。そりゃ、人間的な成長なんか望むべくもない。
「君が気づくべきだろう。君が間違えたんだから」
「……」
「これは大きなプロジェクトだから、そういう失敗が大きな綻びをもたらすんだよ。まったく、なんで資料配布くらいで、ミスをするんだ。考えられないよ」
「いや。それなら、俺も言わしてもらいますけどね。このプロジェクトは俺と大山さんの二人に任されてるじゃないですか。大山さん、なんかやってくれました?」
「いや、それは……」
こいつ。反論してきた。自分が悪いのに。自分のミスを棚にあげて。逆ギレしてきた。
「俺が資料作って、会議の調整発信して、他部署のとりまとめもして、指揮って。その間に、大山さんなんか仕事してくれました?」
「……資料がなかったから助言しようにもできなかった」
「それは、さっきの話ですよね? 俺が言ってるのは、それまでの話です。俺が頑張って資料作ってるのに、知らんふりして、帰ってったじゃないですか」
「……手伝って欲しかったら、手伝ってくれって言えばよかったじゃないか」
「はぁ? なんで、俺が『手伝ってもらう』ってことになるんですか?」
「それは、さっき言った君の言葉をそのまま使っただけだ。君が私に資料配布しなかったかった時に『言えばいい』と言っただろう? 君だって、『手伝ってくれ』と言えばよかったと言ったじゃないか。それ、今の話に当てはまるだろう?」
英昌は嘲ったような笑みを浮かべる。さっき、自分が言ったことなのに、それをもう忘れている。どうしようもない無能だ。
「違いますよ。俺と大山さんが指示されたのに、大山さんがなんで手伝う側に回るんですか?」
「それは……私の方が年上だから。助言が欲しいなら、さっき言った通り君が私に言うべきだった」
「助言? 勘弁してくださいよ。係長以上全員が指導側にいるのに、同じく一般の大山さんにまでそっち側立たれたら、もう仕事進まないですよ」
「だから、仕事には段取りがあって。まず、先輩の俺に相談して、それが大丈夫だったら係長に相談。それで、課長に相談。物事には順番があって、そうやって進めていくんだよ」
「なに言ってんですか? そんなことしてたら、仕事間に合わないじゃないですか! それくらいだったら、もう一人でやった方がマシじゃないですか」
「ミスして、出戻りするロスの方が遥かに大きいだろう。そうやって、行って戻ってしてる方が、遥かに仕事が進まないんだぞ」
まったく。仕事の段取りすらまともにできないのかと、大きくため息をつく。こんなことでは、このプロジェクトが先行き不安だ。もしかしたら、松添係長に吉村を外す進言をした方がいいのかもしれないと、英昌は漠然と思う。
「はぁ……もう勘弁してくださいよ」
「おい、どうした? なにやってるんだ」
その時、係長の松添が部屋に入ってきた。
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