第10話 森

           *


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 午前2時。東京都郊外の雑木林。男は息をきらしながら、ボストンバッグを抱え山道を歩く。灯りはおろか、月の光もない夜だった。懐中電灯を頼りに、ひたすら前へと進んで行く。


 RRRRRR……


 その時、背後から着信音が鳴り響く。男はビクッと身体を震わせて振り返り、ボストンバッグから刃物を取り出し、叫ぶ。


「誰だ! そこにいるのは!?」

「はぁ……相沢。お前、消しとけよ携帯くらい。基本だろ、基本」

「す、すいません」

「こんばんは。大山英昌さん。結構深くまで来ましたねー。それ、包丁ですか?」

「……っ」


 そこには、刑事の、確か松下という名の男が立っていた。満面の笑みで、まるで友達に会ったときの気安さで。そして、声をかけられた男――大山英昌は全身から汗が噴き出す。


 なぜ。なぜ。なぜ。


 なぜ、この刑事がこんなところにいる。つけられた? いや、尾行はできないように、車で入り組んだ道を走行した。あれほど、複雑な道を、複雑な経路で走ったんだから、つけるなんてことはできるはずがない。


「ど、どうしたんですか?」


 それでも、英昌は震えた声を絞り出す。


「いや、こっちの台詞ですよ。この時間にキャンプって訳でもなさそうですし」

「えっと、その……」


 なにか言い訳。脳をフル回転しながら考える。


「いや、心配したんですよ。いないから、家に。もしかしたら、悲しみに暮れて変なことを考えてないかって」

「……申し訳ありません。もう、妻はいないんだと思いまして、ついそんなことを考えてしまいました」


 下をうつむきながら。英昌は安堵の表情を浮かべる。この刑事、自殺を疑っていたのか。確かに、状況としてはそうとも取れる。間抜けな無能にほくそ笑みながらも、心底絶望した表情を必死に演じる。


 松下はしてやったり顔を浮かべた。


「やっぱり。その気持ちはよくわかります。あんな殺され方したら、仕方がないですよ。でも、奥さんだってそんなことは望んでないと思いますよ? どうぞ、気をしっかり持ってください」

「……はい」

「ところで、それ包丁ですか?」

「えっ、あっ、すいません」

「駄目ですよ。出してください」

「……でも」


 松下は昼に会った時の気安さでこちらに近づいてくる。一瞬、この男を刺そうとも思ったが、後ろにも女の刑事がいる。


 包丁で自殺しようとすることも、決して、不自然ではない。あとで、多少は疑われたとしても、ここでは素直に差し出すのが正解だろうか。


 しかし、これを深く調べられたら……


「いいですか? 自殺未遂はれっきとした犯罪行為です。今なら、私たちも見て見ぬふりができますから。なあ、相沢」

「えっ、いやでも」

「はぁ。お前なぁ。融通が利かないにもほどがあるぞ? 奥さんが殺されたんだぞ? むしろ、こうなるのが、普通なんだぞ? それを、お前法律を犯したからって捕まえるのか?」

「そりゃそうですけど、また変な気を起こしちゃうかも」

「だから、包丁を取り上げるんだろ? 英昌さん、安心してください。包丁はあなたの家に帰ったら返却しますよ。この場で変な気を起こすのだけはやめてください」

「……じゃあ」


 バカで間抜け。そして、雑。英昌は最初にイメージしたまんまの男に安堵した。この無能には、わかるはずもない。英昌は松下に包丁を手渡す。


「へぇ。いい包丁ですね」


 松下は、感心しながらつぶやく。


「妻のなんです。ずっと大事にしてました」

「そうですよね。しかも、これ匠シリーズの包丁じゃないですか?」

「……いえ。私は、ほとんどそう言った知識がなくて」

「知らないですか? 相沢も知らない?」

「知らないです」

「嘘。これ、通販の取り寄せで。なんでもスパスパ切れるって評判で、購入してから一年待ちなんてザラなんですよねー」

「……ああ、そう言えば確か妻がそんなことを言ってたような」


 英昌は心の中で舌打ちをした。無駄に、知識だけを持ってる無能。がさつで、思いつきで話して、無計画でずさん、松下はまさに、一番嫌いなタイプだ。


「じゃ、これはひとまず預からせてもらいますね。あっ、あとそっちのボストンバッグにある物も出してください」

「い、いやこれは」

「俺、わかってますよ。なにが出てくるのか?」


 松下がニヤリと自信満々の笑みを浮かべ、思わず英昌の心がひりつく。


「……っ、なんですか?」

「ロープでしょ、ロープ。こんな山奥の雑木林にきたら、だいたいは首つり自殺だって相場が決まってるんですよ」

「そ、そうなんですよ」


 やはり、バカだ。こんなヤツなんて、いくらでも誤魔化せる。


「でしょ? 俺の勘は当たるんですから。刑事のカンってヤツです。早くだしてくださいよ」

「ロープは危なくないんですから。別に問題ないでしょう?」

「……まあ、そうですけどね。そういう道具があると、つい不吉なことを考えちゃうんですよ。そういうものなんです」

「……」


 断定がいちいち鬱陶しい。なんの根拠もないのに、自分の考えだけを押し付ける無能。警察官という立場だけで、のうのうとしてるような勘違い野郎。こんなクズに、頭を下げること自体が不快だが、今は我慢するしかない。


「いや、もうわかりましたよ。十分に懲りました。刑事さんに救って頂いたこの命。大事にしますから」

「そうですか? まあ、そう言うことなら。じゃあ、相沢。先導して。俺は後ろから歩きますから」

「……わかりました」


 英昌は笑みを堪えながら下を向き、歩く。なんて、阿呆な刑事だろう。ここに、犯人がいるのに、こともあろうに護衛しながら歩くなんて。


 その時。


「なーんちゃって!」


 !?


 突然、松下が後ろから英昌を羽交い締めにした。

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