見たかったものは




「ねえ莉緒、待ってよー!」

 私の声に足を止め、彼女は振り返った。数段先まで降りていた階段を軽やかに駆け上がり、私の顔をのぞき込む。

「何? 沙那ってば、もうへばってんの? 今日はまだまだ長いんだから、しっかりしてよね!」

「いや、別にそういうわけじゃないんだけどさ、張り切りすぎじゃない? 初めての場所にテンション上がってるのは分かるけど……」

「だからこそ! この新鮮な気持ちがあるうちに、近所を散策しまくって色々知っておきたいじゃん! 記録も残そうと思ってこれも持ってきたんだし!」

 首から下げたカメラを見せびらかす莉緒の顔は、実に嬉しそうだ。その笑顔は、降り注ぐ日差しよりも眩しい。

「そのカメラ、本当にお気に入りだよね。つい先月買ってもらったばっかりなんだっけ?」

「うん! 大学進学のお祝いだ~! って父さんが買ってくれたの! あたしの宝物!」

「その宝物を置くスペースさえ片付いてないことには、何とも思わないのかな?」

「え? な、何のことかな~?」

 わざとらしいほどに大きく視線を外し、彼女は口笛を吹きだした。思わずため息が出る。

 先程から余裕で歩いているこの女、こっちに越して来てからまだ三日しか経っていないうえに荷解きも終わっていない。だというのに友人を半強制的に連れ出して散歩に行くとは。堂々としすぎていて、もはや一種の尊敬すら覚える。

 そもそも明日から学校なのに何も終わってないこと自体が問題であるにもかかわらず、本人はそれを理解していない。このままだと私にまで被害が出るから注意してあげているのだが、楽観的な彼女がすぐさま行動に出てくれるわけもなく……ああ、考えるだけで胃が痛い。

 なんで大学生になってまで、手のかかる友人の世話をしなくちゃいけないんだ。それも学校だけでなく家の中でも。もはや慣れっこになっているので文句は言わないが。

「とりあえず、帰ったら荷解きの続きね。私も片付け手伝ってあげるから。というか、あんた一人に任せるとめちゃくちゃ不安だから。異論は?」

「ありません……」

 暗い顔で俯いたのも束の間、すぐに顔を上げてキラキラ輝く瞳を私に向ける。

「ってことは、帰るまでははしゃぎまくっていいんだよね⁉ そういうことだよね、ね、沙那! よーし、そうと決まれば冒険だー!」

 そう言うなり莉緒はスカートをなびかせ、長い階段をまた降りだした。一段降りるたびにカツカツと靴音が鳴り、見るもの触れるもの全てに対して子供のように無邪気な反応を示している。……錆びついた手すりで白い服を汚しているところとか。

 そんな莉緒を私はゆっくり追いかけていたが、彼女の胸の前で揺れるカメラにふと一つの疑問が浮かび上がった。

「ねえ、もう十五分くらいは歩いてるけど写真は撮らないの?」

 こちらを向いた莉緒はカメラと私を見比べて少し考える。

「うーん……なんていうか、まだその時じゃないかなーって」

「何そのマンガのキャラみたいな言い方。普通の住宅街なんだから、そう簡単に珍しいものが見つかることが無いのは当然じゃない? そうじゃなくても綺麗な景色は結構あるじゃん。ほら、あそことかどう? 白い柵に葉の緑が映えていい感じだと思うけど」

 指さした先には青々とした葉をいくつも付けている木々。手前の柵は少し古めなので錆が下に見えるが、撮り方次第ではどうとでもなるだろう。

 それでも彼女はカメラを持とうとせず、首を傾げる。

「いや~、でも一枚目って重要だし、何を撮るのかちゃんと考えたいじゃん?」

「え、あんたにもそういう意識ってあったんだ……」

「ちょっとそれ失礼じゃない⁉ あたしの中にはちゃんと考えがあるんですけど⁉」

 私の呟きを聞きつけ、莉緒は大きくなった声で反論をいくつもぶつけてきた。でも普段の行いからだとそんな風には思えないのだから仕方ない。というよりそんな風に思われている意識を持って生活を改善してほしいくらいだ。

「はいはい、ごめんごめん。ま、そんなにこだわりがあるっていうなら、あんたが撮る一枚目に期待しようかな」

「なんか上から目線な気がするんだけど! こうなったら沙那が腰抜かすほど最高の写真撮ってみせてやるんだから!」

 軽くいなされたことに若干の不満を覚えているのか、頬を膨らませ、拗ね気味で莉緒は歩き出した。でもその怒りが本気じゃないことは分かっている。これは私達の中では恒例の、言うなればじゃれ合いだ。

 でも、莉緒が撮る一枚目には純粋に興味がある。普段はだらしなくて全ての行動に何のこだわりも持っていない彼女が、そんなに撮りたい一枚目とは何なのか――

 不意に起こったそよ風が前髪を揺らす。それと同時に花の香りがほのかに漂い、目の前で桃色の花びらが一つ二つ舞い踊った。

「これは……」

 花びらが降ってきた方向を見上げると、そこには桜の木がこちらに向かって枝を伸ばしていた。黄緑色の葉がいくつか生えているが、それでも美しく咲いた花が形を崩すことなくいくつか残っている。

「桜だ……!」

「まだ咲いてるところ、あったんだね」

 私の独り言に反応してか、いつの間にか莉緒もこちらを見上げている。

「そういえば沙那、今年は桜見れなかった~って言ってなかったっけ?」

「……覚えてたんだ」

 そう。卒業式といえば桜だが、その時期にはまだ咲いていなかった。終業式の頃にようやく咲き始めたから引っ越す前に見れるだろうと思っていたが、ちょうど満開になるというタイミングで天候が悪化。花見を開くどころか、満開の状態をほぼ見られないうちにほとんど散ってしまった。

 花見の名所に行こうかと思ったが新生活の準備に時間を取られて行けなかったし、大学のある地域は地元より桜の開花時期が早い分、散るのも早い。だから今年はもう見られないと思っていたのに。

「綺麗……」

 言葉は自然に出てきた。地元を出て大学に行くための準備で、一か月間ずっと気を張り続けてきた心が緩むのが自分でも分かる。

 ただ桜の花を見つめているだけ、それだけなのに、胸の奥は暖かくなる。春の日差しも相まって、いつになく穏やかな気持ちになれた。具体的に言うと、今すぐこの硬い階段の上で眠っても、幸せな夢を見られるんじゃないかってくらい。いや、むしろ既に夢の中に入っているようだと言っても過言ではない。

 ああ、幸せだ。しばらくは、ただこうして目の前の美しい風景を眺めていたいな――


 パシャッ!


 突如響いたシャッター音によって、私の意識は現実に引き戻された。音のした方を向くと、レンズ越しに私を見つめているであろう莉緒の姿が。

「り、莉緒? 今って何撮ったの……?」

 完全に油断していた。もしかして莉緒は、気が抜けている私を撮ろうとしていたんじゃないか。まだ夢から戻り切れていないまま、彼女に視線を向ける。

 そんな私のことはお構いなしに、莉緒はカメラの画面を見て満足そうに微笑んでいた。


「よかった、やっと笑ってくれた」

 

「え……?」

 小さな呟きだったけど、確かにそう聞こえた。

 辺りを見回しても私達以外には誰もいない。ましてや莉緒は自分自身を撮っているわけじゃない。

 だとしても莉緒が写真を撮る理由が分からない。もしかしたら桜だけを撮ろうとして私が写ってしまう画角だったのかな。けど、それだと呟きの意味が分からない。

 そういえば、ここしばらくで満足に笑ったのっていつだっけ? 最後に二人で笑い合ったのって、いつだっけ? もし莉緒がそれに気付いていたとしたら。

「ね、ねえ莉緒、もしかして莉緒が撮りたかったのって、私の――」

 言い終わらずとも莉緒は私のことをじっと見ていた。カメラを手に、階段の踊り場で突っ立ったままで。

「そ、それは、その……」

声は聞こえない程に小さくなり、顔を隠すようにカメラを持ち上げた。その下で白い頬が、段々と桜色に染まっていくのが見える。

 ……私の顔が熱いのは、日差しのせいだろうか?

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百合の小箱 皆河雪華 @sekka_0301

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