私の世界には




 この世界は騒がしい。

 ドアが開かれる音、廊下を駆ける靴音、人々の談笑する声。目覚めてから眠るまで、常に様々な音が聞こえてくる。

 私がその世界に入るまいとスマホの画面を見つめていようが、この世界を構成する音はその壁を簡単に壊してしまう。自分の世界に余計なものが侵入するのは不快だ。

 無論、皆が私の邪魔をしようとしているわけではないのは理解している。ただ、私にとってこの教室に留まって授業を受けている時間は何の利益も生まない無駄な時間であり、一日の三分の一をそんなことに割く必要があるとは思えない。


 終業を告げるベルが鳴り、クラスメイトたちは各々動き出す。荷物を片付けて早々に教室を去る者、友人と談笑しながら着替えを始める者、席に着いたままスマホを弄り続ける者。誰がどんなことをしようと、私には関係ない。荷物をリュックに詰めて、教室を後にする。

 すれ違う学生はジャージ姿だったり、この後使うであろう大荷物を持っていたり。部活に入っているというのは大変そうだ。

 少し古臭さを感じる校舎は来年から改築が始まるらしい。工事なんてただでさえ耳障りなのに、それが受験時期と被るうえに校舎の一部が使えなくなるなんて最悪だ。今のうちに別の場所を探しておいた方がいいのだろうと思いつつも、結局足はいつもの教室に向かってしまう。

 A棟三階の一番奥、体育館の向こうに広がるグラウンドがよく見える場所。倉庫として使われていたであろうこの教室もすっかり忘れ去られてしまったのか、積み重なったいくつもの時代遅れの道具には分厚い埃がかかっている。掃除をされることも無いので、いつ来ても埃臭い。

 カーテンの閉まり切った暗い部屋に足を踏み入れると、カサッと何かの音がした。足の下に何かが落ちている。少しべたついているそれを拾い上げ、適当に置いてあった椅子を窓際に移動させて座った。カーテンを開けた途端に、オレンジ色の光が教室に差し込んできた。眩しい。

 予想は出来ていたが、その通りだった。あの子が大好きなベリー風味の一口チョコレート。何度か食べさせてもらったことがあるけど、ベリーの甘酸っぱさが口いっぱいに広がって中々悪くない。

 生徒会に入っているのに校内にゴミを放置するなんて、本当におっちょこちょいで心配になる。まあ、そういうところが彼女らしくてかわいいのだけど。

 ちらり、グラウンドに目をやる。野球部とサッカー部が半分ずつ使っているから、元気の有り余る掛け声があちこちから響いてきた。本当にうるさい。

 なんでこの世界はこんなにも騒がしいのだろう。野球部もサッカー部も私の人生には必要ない。私にはただ、あの子がいればいい。

 チョコの包み紙をなんとなく顔に近付けると、嗅ぎ慣れたベリーの香りが漂ってきた。きっとこれを食べる時も、あの子はいつもの幸せそうな笑みを浮かべていたんだろうな。そう思うだけで自然と笑みが浮かんでしまう。

 会いたい。早く。今すぐに。

 けれども彼女は人気者で、クラスだけじゃなく学年でも学校全体でも信頼されている。きっと今もどこかの教室で、生徒のためになる発言を沢山しては他の学生や先生から褒められて嬉しそうな表情を浮かべているんだろうな。

 ……そんな風に思うと、少し寂しくなる。

 私にはあの子しかいないのに、あの子には私だけじゃない。私の世界は私とあの子だけで出来ているのに、あの子の世界には沢山の人がいる。それがなんだか悔しくて、こんな世界もこんな考えの自分も、全部ぜんぶ嫌になってしまいそうで――

「あれ、もう来てたんだ」

 古い引き戸が引っかかりかけながら開く音がして、私は振り返る。そこには少しウェーブのかかった赤茶色の髪をなびかせている美形の少女がこちらを向いて立っていた。

「……当然でしょ。私は別に委員会も部活も無いんだから」

「あはは、そうだねー。でも今日の生徒会は早めに終わった方だよ? だってあたしがバンバン発言してきたもんね!」

 自慢げに鼻を鳴らしてみせる少女に、私はつい笑ってしまった。理由が分からず彼女は眉をひそめる。

「何? 何の笑い?」

「いや、何でもないよ」

「ええ~? そう言われると気になるんだけどなぁ」

 でもこの笑いは許してほしい。だって私の予想通りなんだもの。

 けれど、それと同時にまた寂しさが湧き上がってきた。やっぱり彼女は私だけの物じゃなくて、皆に頼りにされている素敵で優秀な生徒なんだと思わされてしまう。

 ……どうしてこの子は私なんかに構ってくれるんだろうか。もしかして今の時間は彼女にとってはただの戯れで、いつか飽きたら全て無かったことになってしまうんじゃないだろうか。そんなの、考えるだけで胸の奥が苦しくなる。

「ねえ、どうかしたの?」

 不安が顔に出ていたのだろうか、彼女が私の顔を覗き込む。

「あ……何でもないよ」

 思わず顔を逸らしてしまった。彼女がそんなことで私を嫌うとは思えないけれど、この嫉妬じみた感情が彼女にバレてしまうことが怖い。たとえ嫌われずとも、私が彼女と真正面から向き合えなくなるかもしれない、そんな懸念ばかりが増えていく。

 何も答えずグラウンドばかり眺めている私が気に入らないのか、少女は椅子を私の向かいに持って来て、腰を下ろした。

「……何か悩んでるんじゃないの? 教えてよ。あたし、あんたのこと全部知りたい」

「……!」

 視線に耐え切れず振り向いた先には、私の顔を真っ直ぐ見つめる少女がいた。

 ああ、そんな顔で見つめられたら、話さずにはいられなくなるじゃないか――

「――たらいいなって」

「え?」

「この世界にいるのが、私と君だけになったらいいなって思って」

 そうすればずっと君のことだけ考えていられるから。君のことをずっと見つめて、君の声にだけ耳を傾けて、君のためにだけ生きていられるから。それが私の夢の世界。

 ハッとして少女の顔を見る。つい思ったことをそのまま口にしてしまったけど、彼女は――案の定、言葉の意味が理解出来ていないのか固まっていた。私は先程自分が言ったことを理解した瞬間、頬が熱を持つのを感じる。

「あ……えっと、今のはその、別にそういう意味では――」

 言い訳すら恥ずかしくて視線を逸らそうとした顔を、白い両手が優しく包む。夕焼けを反射する茶色い二つの瞳は私のことを真っ直ぐ見つめ、私の顔を覆う黒いストレートの髪を耳にかけてくれた。

「ふふ、嬉しいな。あたしのこと、そんなに想ってくれてるんだ。でも心配ないよ」

 立ち上がった少女は私に顔を近付けた。女神のような微笑みが光に照らされ、暖かい吐息が私にかかる。


「あたしの世界には、最初っからあんたしかいないんだもん」


 ほのかな甘酸っぱさが、柔らかな唇の隙間から広がった。

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