百合の小箱

皆河雪華

雨とあなたと




 今日は最高の日だ。

 苦手な古文の小テストは満点だったし、購買では一日十個限定のスペシャル弁当もゲットできた。何よりいつも十九時までやっている部活が、十七時で終わったということが大きい。

 玄関からは、自分と同じく部活を終えた学生の姿が少しずつ減ってきている。無理もない。最近は大会に向けて練習メニューが厳しくなっており、帰っても遊ぶ気力すら起きず、最低限の課題だけを済ませて眠りにつくような生活を送っている学生も少なくないのだから。現に私もその一員なので、気持ちは充分に分かる。

 けれど私には用事がある。早く帰って課題をやるよりも、新作のゲームを進めるよりも、ずっとずっと重要で大切な用事が。

 楽しそうに喋りながら学校を出る後輩たちを見送ると、玄関はすっかり静かになってしまった。穏やかな風が開きっ放しの扉から入り込む。

 この時間ならきっと残っているだろうけど、念のため確認しておこう。自分の靴が入っている下駄箱の裏にすぐさま移動。古めの木材で区切られたマスの中には、緑色のラインが目立つ指定靴がちらほら見える。あの人の下駄箱の中には――入っていない。汚れのほとんど付いていない綺麗なローファーが揃えられているだけ。

 毎日授業が終わった後にまで講習を受けるなんて、私だったら絶対に耐え切れないだろう。それを国立大学合格という目標のために難なくこなしているのだから、先輩は本当にすごい。部長であった先輩のおかげで自分たちでも全国大会に行くことができたし、少し前までは勉強の合間を縫って部活に顔を出しては後輩に指導をしてくれていた。

 今でも先輩の噂はよく聞く。いくつもの有名な大学から入学案内が届いているとか、外国の学校に進学する方向で話が進んでいるとか、信じられないような話だけど納得できてしまう。だって、先輩だから。

 先輩の靴を見つめているうちに、廊下の奥からいくつもの話し声と足音が聞こえてきた。こんな場所にいたら邪魔になってしまう。そそくさと自分のクラスの下駄箱に戻り、何もなかったかのように靴を脱ぎ始める。

 大丈夫、いつも通りに振る舞えばいいんだ。いつも通り靴をしまって、いつも通り外靴に履き替えて、いつも通り玄関で時間を潰す。そうして偶然やってきた先輩に挨拶をする。そう難しいことじゃない。

 靴を持って呼吸を整えている間にも、反対の下駄箱から靴がぶつかる音が響いてくる。先輩の姿はまだ見えない。

 先輩は真面目だから、きっとまだ教室に残って先生に講習中に聞けなかった質問でもしているんだろう。そういうところは部活にいた時からずっと変わっていない。他の学生が帰った後でもずっと一人で努力し続けている先輩は、私の憧れだ。

 先輩のことを考えていたら、いつの間にか人が少なくなっていた。先輩だっていつ来てもおかしくない。とりあえず靴を履いて、スマホでもいじりながら玄関先で待っていよう。

 空には分厚い灰色の雲。朝にやっていた天気予報通りなら、そろそろ降り始める頃だろう。それを見越した天才的な私は、この日のために秘密兵器を用意してある。

 ナップザックの奥底、ジャージに埋もれるようにして入っているのは水色の折り畳み傘。先輩が傘を持っていなければスマートに差し出すことが出来るし、先輩が持っていた場合は用意し忘れたふりをして先輩の傘に入ればいい。なんて便利な道具なのだろうか。これで私はどうやっても先輩と相合傘をすることができる。計画は完璧。

 先輩と二人きりで帰れる機会なんてそうそうないのだから、今のうちに何を話すか考えておくことにしよう。まずは部活で大会メンバーに選出されたことから始めて、最近の部活内での活動や部員の様子も話したい。でも私の話ばかり聞かされるのもつまらないだろうから、先輩の近況もたくさん聞いてしまおう。最近は大学のオープンキャンパスに行ったり、予備校の特別講習に参加したりと色々しているみたいだし、進路活動について参考にしたいって理由で尋ねれば――

 ふと、右肩を軽くつつかれた気がした。振り返った視界にいたのは、黒いストレートの長髪をなびかせ、こちらに柔らかな笑顔を見せる清楚な女性。色白で細い手を小さく振ってくれる。

 こうしてしっかり顔を合わせるのは半月ぶりくらいだ。部活を引退してからは一緒に過ごす時間もめっきり減ってしまい、廊下で偶然すれ違った時に挨拶をすることしかできなかったのだから。

 それにしたって先輩は本当に美しい。古びた校舎の中でも、曇り空の下でも、先輩は天使のように神々しく輝いて見える。言いすぎ、なんてことはない。私にとって先輩は全てで、表現してもしきれないほど優しくて綺麗で素敵だ。

 しまった、ここで待ったは良かったけど先輩が靴を履くところを見れなかった……と思ったけど先輩の笑顔を見れることに比べたら、そんなのどうでもいい。今は目の前で微笑みを浮かべる女神と言葉を交わすことが私の幸せなのだから。

 楽しそうに近況を話してくれていた先輩が言葉を止めた。振り返るとアスファルトには黒い点が出来ているのが見える。ぽつぽつとしか付いていなかった点は増え続け、あっという間に地面は水に覆われてしまった。

 これはチャンスだ。私がさりげなく投げかけた質問に何の疑問も持つことなく、先輩は手提げの中を確認し始める。中身を一通り見た後、こちらに決まり悪そうな笑みを浮かべた。悩ましげな女神も可愛らしい。

 おっと、見とれている場合じゃない。ニヤニヤしたい気持ちを抑え、私は作戦Aに移るためナップザックに手を突っ込んで傘を取り出す――よりも前に、誰かが先輩に声をかけた。

 玄関から出てきたのは、高身長な爽やか系男子。きっちり着こなした制服のネクタイの色を見る限り、先輩と同学年だ。手には蝙蝠傘を持っている。

 そいつは私のことなどお構いなしといった風に、先輩に親しげに話しかけた。先輩なら怒ってくれるって思ってた――けど、その表情は私と話している時よりずっと輝いていた。頬を紅潮させ楽しそうに喋るその様子は、まるで恋する乙女のよう。

 そういえば先輩、好きな人がいるって前に言ってたっけ。前から少し気になってはいたけど、同じ大学を目指していることを知ってからは受験や学科のことについてよく話すようになったとか。クラスは違うし講習の時間も常に一緒じゃないから会えるタイミングは限られるけど、おかげでモチベーションを保ちやすくなってるとも。じゃあ、この人が……

 ようやくこちらに気付いた男性は、私に向かって軽く挨拶をする。表情や口調から、確かにこの人がいい人だというのは分かった。でも、だからといって先輩を渡したくはない。

 私が傘を出す前に、男性は先輩に傘を差し出した。それがどういうことを意味するのか、理解した先輩はまた嬉しそうな顔をする。


 見たくない。見てられない、こんな先輩なんか。


 気付いたら逃げ出していた。雨の中、傘もささずに校門に向かって振り返ることなく走り続ける。後ろで私のことを呼ぶ先輩の声が聞こえたような気がしたけれど、そんなのは雨音に全てかき消されていった。

 傘をさし、談笑しながら帰る三年生。コンビニにて雨宿りをしている、さっき別れた後輩たち。みんなが私のことを見ているような気がしたけど、そんなの関係ない。今は早く一人になりたい。ぐしょぐしょの靴下から水が染み出る感触を足裏に覚えながら、必死で足を動かす。

 これが醜い嫉妬だというのは分かってる。それでも私は、目の前の現実を見たくなかった。私の先輩が誰かに奪われてしまうという事実を受け入れたくなかった。

 一体どれだけ走ったのだろうか、気付けば閑静な住宅街まで来ていた。髪も服もびしょ濡れで、白いハイソックスには灰色の染みがいくつも付いている。この感じじゃあリュックやナップザックの中身も完全に濡れてしまっているだろう。

 ……知らなかった。先輩があんな顔をすることも、どれだけあの人のことが好きなのかも。あの笑顔を思い出すたび、胸の奥が苦しくなる。あれは、私がずっと向けてほしかった表情だ。

 これから私は、先輩と出会った時に、今まで通りでいられるだろうか。

 頭痛がして、思考がぼんやりとしてくる。標識が見えないくらいに視界も滲んできた。これはきっと雨のせい。全身が濡れて冷えてしまったから、風邪をひいてしまったのだろう。

 ……明日は休んでしまおうかな。頬を濡らし、私は帰路についた。

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