第217話 アトリとエルメルトン

 馬車に揺られる日々もいよいよ2か月近くが経過した。これだけ移動が続くと、このお尻の振動にも流石に慣れてくる。そもそもリア達は皆、ある程度旅慣れをしているので、今更肉体的な苦痛やこの単調な日々に精神がやられることはなかった。


 心配だったエルさんも、奴隷だった時は拠点間の輸送を経験させられていたわけで。それよりも自由の利く今では楽しそうにスティアと話す姿が見られる。


「そう、夫も何かバツの悪いことがあったらすぐキスしようとしてくるのよ。だからね、なんとか誤魔化されないように気を強く持たなきゃだめ」

「なるほど、やっぱりそうなのですか……黄昏さんも会話の途中で突然唇を奪ってくるのです。そうですか、あれは何か誤魔化されていたのですね」

「そうに違いないわ。アレは父親にそっくりだから。ちゃらんぽらんなところが特にね」


 黄昏さんて……。名前を出せないからっていうのはわかるけど、リアも自分のことで隠語を使われると違和感が凄いだろうな。あとお前母親から酷い言われようだぞ。


「うぅぅ」


 そして談笑する2人をアトリは羨ましそう見ていた。数か月経っても、彼女とエルさんとの間にはかなりの溝がある。しかもエルさんとスティアとの仲がやけにいいものだから、間に入っていけるタイミングがなかなか見つからないようだ。


「うーむ、これはよくないなぁ……」


 下唇を噛むアトリを見てリアは呟く。


 ここ最近ずっとこんな風に落ち込むアトリを見ている。この長旅で余計なストレス抱えることは彼女の健康の為にもよくない。何とかしてやらなくては。


「おか……エル、ちょっと話がしたいんだけど」

「なにかしら、ミナト」

「えっと、アトリのことなんだけど」


 向かいのシートに座る母へ話を切り出そうとするが……。


「ミナト……いい」


 アトリはそれを制した。


「でもアトリ……」

「いいから。これは私自身が何とかしなくちゃいけないの。だって、大好きな人の、その大切な人の事なんだから」


 彼女ははっきりと言い放った。よく言った! と言いたいところだけど、重荷になっていないか? という心配もある。


「アトリがそう思ってくれることは私としても嬉しいんだけど、ひとりだけで解決しようとしちゃだめだよ? 事情が事情だし、それにこれは人間関係の事だから」

「うん」

「だからね、私は手を出すんじゃなくて、サポートに徹することにする。だから、アトリはその上でアトリなりに手を尽くしてみてほしいの」

「ありがとう……ミナト、大好き」


 そう言ってアトリは隣に座るリアに頭をピッタリとくっつけた。


 今のやりとりは当然件のエルさんにも見られている訳で。目の前で行われた会話を、ずっと避けてばかりいる純人の少女が真剣に自分の事を考えてくれているこの状況を彼女はどう捉えているのだろうか。


 とにかく俺たちには場を整えて、彼女を見守ることしかできない。


 夕方近くになって、俺たちは本日宿泊する宿場村へと到着した。


「あっ、シルゥちゃん、悪いけど今日は3部屋取ってくれる?」

「了解です! 今日は贅沢にいくんですね!」

「まあ、たまにはね」


 数か月の間、毎日宿場村の宿に泊まるとなると、正直宿泊費が馬鹿にならない。だから今までは節制として、シルゥちゃんのパーティと合わせて2部屋だけを取っていた。


「あれだったら、シルゥちゃんたちももうひと部屋とる?」

「ああ、私たちは結構ですよ。贅沢を覚えてしまっては今後の活動に響きますから」


 ストイックだなぁ。1日くらいそういった日があってもいいと思うんだが。


 感心しつつ、リアたちはシルゥちゃんが手続きを終えるのを待った。


「お待たせいたしました。2階の3部屋をすべて確保しています。鍵をもらっているので、すぐにでも入ることができますよ」

「うん。じゃあもう今日は解散ということで。明日もよろしくね」

「はいっ! 朝にまた宿の前でお待ちしています」


 気持ちのいい挨拶の後、シルゥちゃんは仲間と一緒に村の中心部へと向かっていった。食事処があるとかなんとか。


 彼女たちとの契約は「移動中の護衛」がメインでそれ以外の時間は基本的にフリーである。それ以降の時間は一緒に過ごすこともあれば、今日みたいに食事時すら別々に過ごすこともある。こっちにはエルさんもいるから、ある程度距離感を保つ必要があるのだ。


「さっきの話聞こえてたかもだけど、一応言っておくね。なんと今日は2部屋も使えるの。だからペアを作らないと」

「そう。じゃあ私はリ──」

「私はスティアと一緒ね」


 エルさんの意見を遮るようにリアは言った。


「え?」

「私はスティアと一緒に寝るから、お母さんはアトリと一緒に寝てね」

「なっ……!」


 これがリアなりのアシストだ。荒療治であることは承知のうえ。しかし、やはりいつまでもアトリがエルさんに距離を取られている状況は親友としても、子としても、いつまでも捨て置けるものではなかった。


「でも!」

「お母さん、アトリがお母さんに危害を加える人間に見える?」

「見えない……けど……」

「大丈夫だから、私に免じて今日だけは一緒にいてね」


 こんな言い方はすぐ側で話を聞いているアトリに失礼だろうが、彼女が自分でやりたいと言ったのだから、この機会を生かしてほしい。


「じゃあ、わたしとスティアは食事を買ってくるから、ふたりは部屋でお留守番お願いね──いこ? スティア」

「は、はい」


 リアはスティアの手を取って宿を出る。そして、彼女らへの宣言通り食事を買うため、シルゥちゃんたちが向かった村の中央まで歩き始めた。


「上手くいきますかね?」

「うーん……お膳立てしておいてなんだけど、なかなか難しいと思うよ。私も昔は大人の男がダメでね、ある程度会話を熟せるようになるまでかなりの時間がかかったんだ」

「そうなのですか」


 リアの場合、獣人の隠れ里の戦士スハラさんからのスパルタ教育を年単位で受けてようやく症状の改善が見えた。それを一度の対面で、というのは難しいだろう。


「でも、相手はアトリだからね。どうなるかわからないよ」

「ああ! ふふ……そうかもしれませんね」


 スティアは納得するように肯定した。そう、俺たちは知っている。アトリがどれだけ天使で、愛くるしく、そしてまっすぐな少女であるか。彼女をもってすれば、エルさんの純人恐怖症は改善するとまではいかなくても、彼女を受け入れられるくらいには進歩するのではないだろうか。


「とにかく、私たちは聞き耳立てつつ、お買い物と洒落こもう」


 幸い2人ともエルフで、その気になれば出掛けながら会話を聞き取ることができる。盗み聞きは趣味が悪いけれど、今更な話だ。アトリもきっと許してくれるだろう。







 私たちがその場を離れ、ふたりは無言で同じ部屋へと入っていったようだ。


『あ、あの……』

『は、はいっ! どうかしましたか? エルさん』


 意外なことに、口火を切ったのはお母さんの方だった。


『えっと……その……わっ、悪いとは、お、思ってるわ!』


 しかしその声は震え、私の耳をもってしても聞き取るのがやっとというほどに小さい。


『あ、あなたはリアの友達で、その、キスだってたくさんしているのを知ってるし……』

『あっ……はい……』

『と、とにかく、お互いに深い絆があることは私も理解している』

『そ、そうで──』

『でも!』


 アトリの言葉を遮るようにお母さんは声を荒げた。


『わ、わたしはエナ──いいえ、『純人』であるあなたが……その、やっぱりこわいわ……』

『あぅ……』


 お母さんは素直に自分の気持ちを伝えた。アトリはやっぱりちょっと悲しそうな声をあげたけれど、前みたいに完全に避けられている状況ではないとわかったのか、泣き出したりはしなかった。


『こ、こわいのは仕方がないです。純人とエルフは違う。違うから、こわいんです。わたしはリアと出会うまで、人にそんな違いがあるって知らなかった。でも、知らなかったせいで、悲しいことがおきました』

『……あなたとリアとの間に起きたことは、あの子から聞いている。でも、私はそのことでどちらかを責める気にはなれなかった。そうね……ただ『悲しい』って、話を聞いて思ったわ』


 その話をした時のお母さんの表情は今でも忘れられない。話したことを後悔するほどに落ち込んでいたから。


『はい、わたしも悲しかったです。でも、リアはそれでも一緒にいたいって言ってくれました。だから、わたしはリアと一緒に行くことを決めました』


 それは一生懸命アトリを支えてくれたミナトのおかげもあるけどね。


『旅の中でわたしはリアと同じ、わたしとは『違う』スティアに出会いました。考えていることも、これまで過ごしていた世界もまるで違うスティアだったけれど、リアを介して大好きになれた。そんな大好きなふたりと一緒に過ごすうちにわたし、思うようになったんです。違うところもいいなって』


 語るアトリの言葉をお母さんはずっと黙って聞いていた。表情は見えないけれど、きっとその顔にもう怯えの感情はないと思う。


『リアの強引で頼りになるところも好きだし、スティアの穏やかできれいなところも好きです。それと……エルさんのこともいいお母さんだなって思ってます。だってリアのために痛いのを我慢したりしたって聞いたから』

『リアが言ったのね……もう』


 ごめんね。だって、わたしも嬉しかったんだから。お母さんが酷い目に遭ったのはもちろん良くないけど、間違いなく愛は感じられた。


『わたしはあんまり自分のお母さんのことを覚えてないけれど、きっとそういうところは純人もエルフも違わないんだって思いました』

『子どもの事を考えない母はいないわ』

『えへへ……じゃあ同じ、ですよね。きっと』

『ええ、そうね』


 この時初めて、お母さんの口から微笑むような吐息が漏れた気がした。

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