第56話 ラプニツ
部屋で待つこと数時間後、額に雫を浮かべた店主が契約書を持ってきた。手続きに必要な準備のため、色々な公的機関を走り回ったのだという。その成果として、後はハツキさんが直接役所へ書いた書類を出すだけという状態となっていた。
その後これでもかと急かされて、俺たちは書類を提出する為に役所へ行った。これで晴れて件の少年は正式にハツキさんの奴隷というわけだ。
しつこいほど何度も感謝の言葉を口にする店主の声を耳に、俺たちは宿へ戻る。彼はまるで憑き物が落ちたような顔をしていた。
この街、というかこの国では奴隷を泊めておける宿がほぼ無いようだ。店主はさっさと出て行ってほしいようだが、破産の窮地を救ってもらった手前、しばらくの間、彼を伴って寝泊まりすることを拒んだりしなかった。
さてこの獣人の少年、名前をラプニツというらしい。生まれはガイリン南部の街らしく、黒犬系の獣人で、歳は10歳らしい。
さっきから「らしい」尽くしなのはその情報自体、前の持ち主がラプニツくんを購入した際に奴隷商人から渡された奴隷登録に関する書類によるものでしかないからだ。よって、俺たちはそこからでしか彼の事を知ることが出来ない。
何とも悲しい事に、その情報によるとラプニツくんは二世奴隷であり、幼いころに購入されたため母親の顔も禄に知らないのだという。
「らぷにつ?」
そして「おい」とか「お前」ばかりで、名前を呼ばれる機会がなく、彼は自分の名前すらいまいちピンときていない様子だった。
想像以上に重いな、これは……。
「ラプニツ……確か、ガイリン北西部フリル地方にルーツを持つ獣人に多い名前だね。『ラプ』というのがそこの獣人たちの方言みたいなもので『黒』を表していて──」
ハツキさんは彼の部屋のベッドにラプニツくんを座らせ、そんな話を聞かせた。
(そういえば、里にもラプニツっていたよな)
(ああ、あの黒豹のおじさん!)
里にも同じ特徴で同じ名前の人物がいる事からハツキさん情報の信ぴょう性は高い。きっと彼も昔は獣人のいる村で暮らしていたから、そんな豆情報を知っていたのだろう。
そして他人事の俺たちですら多少の関心はあるというのに、当のラプニツくんはよくわかっていないような様子で、ただ所在なさげに相槌を打つマシーンと化していた。
「まあ、結局何か言いたいかというと……ラプニツ、獣人特有の君の名前は、もしかしたら君のお母さんかお父さんが考えた名前なんじゃないかって思うんだ」
だが、ハツキさんのその言葉にラプニツくんは初めてその表情を大きく変えた。
「おかあさん。おとうさん」
「そう。まあ絶対ではないけど、そうかもしれないってこと。ボクたちもこれから君をそう呼ぶけど、いいかな?」
「あ、はい。呼んでください」
答えは単純な肯定だったが、彼の顔には今までなかった色が浮かび上がっている。
(お母さん、お父さん、か……)
ハツキさんとラプニツくんのやりとりを、ぼうっと見ていたリアは、俺だけに分かる言葉を弱々しく吐き出す。
ラプニツくんの境遇も大変だけど、リアだって悲惨なものだ。なまじ家族で一緒にいた幸せな頃を覚えているだけに、はっきりと今を辛いと思えてしまう。
リアは俺を通して自分の過去の記憶を見ることが出来る。
のほほんとした母、少年みたいに笑う父、そして優しくておっぱいがデカい姉。関わりは薄かったけれど、他の親族もいる。
当たり前だけどリアにも家族がいて、楽しかった事、辛かった事も沢山あった。その何もかもが忘れられない。それも自分自身忘れているような埃の積もったところまで、全ては未だ暖かいまま心に残っているのだ。
本当はぼやけていた方が幸せなんだと思う。四六時中、何処にいるかもわからない家族へ思いを馳せることなく、ただ今を精いっぱい生きた方がリアにとって建設的だろう。でもそれが出来ないから、里にいたリアは街へ降りる決断をした。
昔の俺には生きる意味とか目的とか、そういう明確な信念は一切持ち合わせていなかった。だが、リアと同居した今になっては違う。そうなって初めて分かったのだが、リアみたいに信念を持つ人間は強い。
リアは恐らく死ぬまで家族を諦めないだろう。しんどいけど、強い。
「ボクらの方針としては、これから数日をこの街で過ごして、その後首都のアブテロへ向かうことになる。大丈夫かな?」
「もちろんです」
ハツキさんの確認にラプニツくんは即答する。いや答えるというよりは、身体が条件反射で肯定の言葉を吐き出したという感じ。生まれついての奴隷だから、自分の行く末にまるで興味がないように思える。
一応、奴隷生活から解放されることは、リアとハツキさんとのやりとりが耳に入っているはずだけど、この感じでは意味は分かっていないんだろうな。
当初の計画になかった手続きやらなにやらを済ませると、もうすっかり日が暮れていた。というのにまだ皆昼飯すら食べていないではないか。
結局腹ペコを我慢できず、リアたちはこんな時間から街の食堂街へと繰り出すことになった。
幸いな事にこのツリロ市は夜でも営業をしている店が多く、飲食店が立ち並ぶエリアにはそれなりに人の姿が見える。ただ宿と同じように獣人奴隷を入れることを拒む店は多かった。
「なにそれ。腹立つ」
「あの……ぼくはいいのでおふたりで食べてきてください」
「いやいや、あっちの方に屋台が出ているみたいだからそこで何か買って、宿で食べよう」
そのあたりハツキさん情報に抜かりはない。食堂街を更に先へ進んでいくと、少し雑多な印象を受ける屋台通りが交差していた。
ちらほら店じまいの準備を進めている屋台はあるものの、未だこの界隈は賑わっている。辺りに漂う妙に怪しい雰囲気が俺の世界でいうところの東南アジアの夜市を彷彿とさせた。
「ミナト、ボクたちは開けた場所で待ってるから、適当に3人分買ってきてくれないかな?」
「わかった!」
屋台街は少し混雑している。ラプニツくんが入り込むにはリスクがあるだろう。ハツキさんの指示通り、リアは単独で熱気の籠った通りに入り込んだ。
屋台をそれぞれ見てみる。見た事ない海産物が調理されて並べられていたり、火にかけた大鍋がもくもくと湯気を吐き出してたりと、見ているだけで面白い。
俺、インド屋台の動画とか無限に見てたからなあ。これ普通にレストランで食事するより楽しいぞ。
「そこの可愛いお嬢ちゃん、どうだい? 新鮮だよ!」
「こ、これは……!」
だが、こういうのだけは本当勘弁してほしい。こんなんリアが飛びつくに決まってる。
(待て早まるな! まだ他の店も全然見てないだろ!? ほら、あの海老みたいなやつスゲー美味そうじゃん、見に行こうぜ!)
俺の静止を完全無視して、リアは声をかけられた店の方へ向かっていった。
「3人前ください!」
「あいよー60ガルドね」
お金を渡し、分厚い葉っぱ皿にこんもり盛られた茶色の物体を受け取る。
(うっひょ)
未だ原型をほぼ完全に残した昆虫たちがスパイスやら何やらを使ってこんがり調理されていた。何とも言えない香しさが絶妙にムカつく。
楽しい屋台巡りが一転、なんの罰ゲームだと言いたくなる事態へと変貌した。
リアが嬉しそうに料理を抱えながら二人の元へ戻る。
「おっ、美味しそうじゃないか」
「……じゅる」
彼らのリアクションを見てわかる通り、この国で昆虫食は珍しくない。地獄みたいな世界だ。
いや、今までリアに何度も食べさせられてきただろ、いい加減慣れろ俺! と自分に言い聞かせる。
だがやっぱり嫌なものは嫌だ。
うわっ!リアのやつ、つまみ食いしやがった。……うぇぇ、節の触感きっもぉ。
心がこれを咀嚼することを全力で拒んでいるのに、身体は美味しいと感じているという謎の状況。
(おっと身体の方は素直だねぇ……)
(いや、お前の身体だよね。嫌がってんだからさ、少しは俺の気持ちも汲んでくれよ)
そんな俺の懇願はこれからも受け入れられないのだろう。郷に入っていけない自分が悪いのか?
1人……いや2分の1人だけどん底の気分のままに宿の部屋に戻り、買ってきた飯を3人で食べる。
「おいしいです」
メニューは最悪だったけれど、ラプニツくんは美味しそうに食べるのが見られたのはよかった。もしあれなら、リアの分も全部食べて欲しい。
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