読み切り短編「唄うたい」
@ikuesan
第1話
唄うたいのほっそりとした指が最後の和音を奏でると、妙なる調べの余韻が豪奢な私室に
その
「玄妙なる哉!」
煙管を片手に紫煙を
しかしよく見れば、男が鑑賞しているのが、唄うたいの演奏なのか、たおやかな肢体を
しかし唄うたいは、男の視姦など意にも介していなかった。それどころか、豪奢なしつらえにも無反応である。というのも唄うたいの双眸はすでに光を失っており、仄かな明暗のほかは
「畏れ入りまして御座いまする。御太守さま」
唄うたいの
しかし、太守の
城館の一画にあるこの秘密の小部屋に出入りを許されているのは、耄碌して耳が遠い料理女と、舌を抜かれた
「されば、次の唄で打ち出しとなりまする。最後までお耳汚しをば。ここよりずっと
再び唄うたいは、繊細な指使いで撥弦楽器を奏で出した。それは哀切な調べの物語詩で、要約すれば次のような中身であった。
*
シャルム随一の分限者といえば、ユルグ・ヤガンに他ならなかった。河畔にある交易都市のなか、もっとも大きな天幕を誇るヤガンの店では、珍しい香料や貴重な香辛料、象牙や宝石など高価な品々が商われており、権勢は衰えることを知らないようであった。
ユルグは一介の隊商より身を興した、立志伝中の人物である。取引の場において辣腕、冷徹で鳴らすこの大商人が、ことのほか
レミラは芳紀まさに十七歳、
レミラの居室からは、豊富な水量を誇る噴水と、緑滴る見事な中庭がのぞめた。その美しい庭で三匹の飼い猫を遊ばせるのが、唯一の外出であった。
この猫たちを、使用人はいささか気味悪げに遠巻きにした。それは猫たちが、どれも躰のどこかが傷ついているーー目が見えぬものや鳴き声を上げぬものなどーーからではなかった。猫たちはレミラが、夢の中で訪れた都市で拾ってきたと主張していたからである。しかし、ウルタールという名の
夢見がちな
さて、年頃のこととてレミラには、引きも切らぬ求婚者の列があった。みないずれ劣らぬ
だが
愛娘の婿選びにはじめ絶句したユルグは、しかし最後には首を縦に振ることになった。何となれば、結局のところユルグは、レミラを目に入れても痛くないほど溺愛していたのである。こうして街中が
禍福は糾える縄の如し、とは手あかのついた言い回しであるが、世の
心痛のあまり伏せったレミラに、追い討ちをかけたのは、最後にして最大の不幸であった。良人の裏切りである。かの若者は、レミラが倒れている隙に、ヤガン家の財産、交易権から家屋敷、そして妻のレミラさえも売り払い、己れは
街外れの、大河ウズに面した
忠義に篤い使用人が、レミラを邸から救い出したのが、逆に仇となったのかも知れぬ。裏切られ捨てられた
*
太守の動きは、歳に似合わず機敏だった。あっという間に殺到するなり、唄うたいを掴まえたのだった。
「
太い指が、唄うたいの細頸を容赦なく締め上げた。ヒューヒューと隙間風のような呼気が、唄うたいの唇から洩れる。
「儂のことをどこで知った? あの性悪なヤガンの縁者なのか?」
太守は口角に沫を浮かべ糾問する。いかな厚顔無恥な卑劣漢と言えども、旧悪を唄われては立つ瀬がないと見える。そう、今や御立派な太守閣下その人こそ、かの歌物語の悪役なのであった。
太守の部屋着の襟足がむんずと掴まれたのはそのときである。容赦のない剛力が、唄うたいから太守をひっぺがした。不様に転がりながらも、護身の短剣を抜いたのはさすがであったが、剛力の主に太守は、眉をひそめた。
「何のつもりだ、この痴れ者め!」
刃を突きつけた先にいたのは、侏儒と料理女であった。だが太守閣下は、己れの
「うぬ……ら……」
ここで初めて太守は、己れの舌がうまく回らないことに気づいた。舌が唇が痺れて、思うように動かない。それどころか、湾曲した短剣を構えていることすら儘ならなくなってきた。太守はよろけ、片膝を着き、ついにはあお向けに倒れた。
「閣下に盛ったのは、
唄うたいが近寄ってきた。料理女も、奴婢も。三人は太守を取り囲み、井戸の底を見るように覗きこんだ。三つ並んだ顔は、ますます人を離れていくようだった。大きく割けた口には鋭い牙がのぞき、鼻はひくひくと蠢き、ぞろりとした毛が見る間に顔中を覆っていった。
「レミラ様は、我らウルタールの猫族と
唄うたいは明らかに、人語を発音しかねている。
「己れの
料理女は、
太守は誰か呼ぼうと必死にもがいたが、指先ひとつ動かない。
「我は肝から頂こうか」
唄うたいが部屋着を捲り、太鼓腹に指を這わせる。
「ならば我は
料理女がクツクツ嗤いながら、長袴を剥いだ。
声のない奴婢は、むろん何も喋らなかった。が、頭の側にしゃがみこむと、いきなり太守の片目に指を突き入れた。そして事も無げに抉り取ったのだった。太守は手足をじたばたさせ抗おうとしたが、出来ることは何一つない。ぺちゃぺちゃと、眼球をねぶる音が室内に響いた。
「ウルタールの猫神様。そしてレミラ様。我らはこの者をあなた様への
唄うたいの声が殷々と響いた。
翌朝、城館の使用人たちは、秘密の小部屋で綺麗に肉の削げ落ちた
(了)
読み切り短編「唄うたい」 @ikuesan
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