ろ
逃げるように階段を駆け降りて、塞は職員室に行き、用を済ませると、保健室へ急いだ。
教室のあの一幕だけで、なんとなくこのクラスが抱える問題はわかっていただけただろうか。
つまりは権力ピラミッドの確立によるいじめ問題だ。
塞は基本的にピラミッドの下の方にいる。学級委員という名もあのクラスのピラミッドでは通用しない。
けれど学級委員という笠を着ることで、ある程度の防御が効くのだ。まあ、それを使いこなすまで、何事ともなく過ごせたわけではないが。
塞はいじめられる苦しさを知っているから、学級委員になった。塞なりに考えたいじめへの方策である。先程の球磨川ように学級委員という言葉を都合よく解釈してくれる人がいれば、権力ピラミッドから弾かれていようと、ある程度の権限は行使できるのである。
ただ、塞やいじめられっ子側への味方は少ない。クラスの半分近くは傍観者の位置に落ち着いている。自分が被害を被らないために。
それが間違っていると一概に糾弾することは塞にはできなかった。いじめられるのは、誰だって怖い。塞もいじめに遭っていなかったら、傍観者になっていたかもしれない。元々気が強いわけではないから。故に霜城のように見た目に反して強気に出られる子を見ると、素直にすごいなぁ、と思う。
いじめっ子は主に二つの派閥がある。単純に男子派閥の葉松が首領のグループと女子の佐伯を中心としたグループ。葉松はガキ大将の中ではただただ暴力の徒という部類のやつ。体力があれば、逃げるだけでいい。まあ、塞には逃げられるほどの体力はなかったのだが。
もう一方の佐伯はいいとこのご令嬢だ。佐伯の親への『報告』次第で、社会的権力を持った質の悪いモンスターペアレントの完成である。教師も戒めにくいタイプである。
佐伯の洗礼も、塞は受けたことがある。学級委員になる際だったため、まだ記憶に新しい。ただ葉松の暴力型のいじめに馴染んでいた塞は、「あ、女子ってこんな感じなんだ」とちょっとずれた観点を持ち、むしろ感心してしまった。効き目がないと見ると、佐伯からの攻撃は途絶えた。おそらく佐伯は頭がいいのだろう。
狡猾で、あまりいい言葉ではないが「女狐」と俗に呼ばれるのは、佐伯のようなタイプではないだろうか。
塞が向かう保健室には小学校低学年からその佐伯からのいびりに晒されているクラスメイトがいる。名義上彼女は「五年二組」になっているが、塞にとってはクラスメイトだ。二クラスに分かれたのは今年になってからであるから。
とんとんとん、保健室のドアをノックする。どうぞ、とか細い声がした。
からりと中に入り、ソファに座っている女子に、塞は柔らかく微笑む。
「おはようございます。美濃さん」
「あ、塞くん……」
少し癖毛で跳ねている長髪の人物が振り向いた。前髪を花飾りのついたピンで留めている。彼女が美濃山茶花。佐伯のいじめを受け、保健室登校となった児童である。
「保健室は涼しいね」
「具合悪い子が来るとこだから、養護教諭の先生が学校に要請して、なんとか空調入れてもらったらしいよ」
苦笑しながら美濃が話す。空調一つ入れるだけでも予算がどうので大変らしい。田舎の過疎の目立つ学校は後回しにされるらしい。
大人の事情というやつが顕著に出ていて、塞もつられて苦笑した。
「あ、そうそう。今度ね、クラスで百物語することになったんだ。八坂くんち借りてさ。詳しい日取りとかは決まってないけど、美濃さんも一緒にどうかな?」
「百物語っ!? 行く行くっ」
少々食いぎみの好反応に塞は目を白黒させる。
「ず、随分乗り気だね……」
すると彼女は普段は見せない得意げな笑みを浮かべた。
「ふふっ、こう見えて私、怖い話は大好きなの!」
それは初耳だった。けれど聞いてから、あっと思う。
「そういえば球磨川くん、美濃さんのこと『さざさん』とか親しげに呼んでたね」
「そう、まこくんや瑠色くんとはその手の話で盛り上がるから仲いいの! たまに維くんとかも交えて」
知られざるオカルトサークルである。ごく平凡な面差しや態度から目立たないが、四月一日維も『呪術大全』などと物々しいタイトルの本をカバーもせずに堂々と読むオカルト好きだ。やはり香久山や球磨川と仲が良かったのか、と塞は感嘆した。その上、まこくん瑠色くんとは……かなり仲がいいらしい。
いや、だがそれ以上に美濃もその中に入っているとは意外だった。けれどクラス内でも異端中の異端である山川コンビがいじめられっ子側の味方のような行動を取るのか、納得がいった。仲間意識、というのがあるのだろう。……まあ、見た目やキャラが異端なだけで、案外と中身はまともなのかもしれない。
人は見かけに寄らないなぁ、と塞は再び感嘆した。
「わざわざそれを伝えに来てくれたんだね。塞くんありがとう」
「いえいえ。じゃあ、僕はそろそろ」
授業の始まる時間が近いから、と立ち去ろうとする。笑顔で手をひらひらと振る美濃だが、一瞬、顔を翳らせて言った。
「百物語……何も起こらないといいね」
少しぞくりと悪寒が背筋を走ったが、塞はそうだね、と笑みを返した。いささか固い笑みだったが。
意味ありげな台詞。よく香久山や球磨川が使うとそれはそれで怖いのだが、先程までそういう趣味があるとは知らなかった美濃が呟くのも、なかなかに雰囲気があった。
それに、
塞には「百物語」と聞いてから、『何か』が起こる予感がしていたのだ。
鳴り止まない警鐘のように、ガンガンと。
そんな塞の思いはよそに、戻った教室では、百物語のことでなかなかに盛り上がっていた。
子どもは怖いもの知らず、というのはよく聞くが、こういうのを楽しめるというのは一つの取り柄かもしれないな、とわいわい話し合うのを眺めながら、塞は一種の達観を抱いていた。
そんな中、塞が戻ってきたのにいち早く気づいた隣の席の子──ちょっと襟足の跳ねた髪と覚醒遺伝というものらしい、日本人っぽくない鶯色の目が特徴的な
「あ、委員長委員長、今、日付をどうしようかって話し合ってたとこだよ!」
誰にでも平等に注がれる日だまりのような笑顔で、ぐっと親指を立ててくる相楽。彼は実は去年から転入したばかりのクラスメイトだ。その目立つ容姿がいじめの引き金になったりしないか、と当初、塞はひやひやしたものだが、それはどうやら杞憂だったようで、相楽はこのからからした笑顔と万物を受け入れんばかりの優しさでいじめっ子たちの牽制さえはね除けてしまった。ある意味すごい才能だ。見習いたいものである。
変わった目の色同士、ということで、塞と相楽は意気投合しており、塞の交友関係の中ではかなり親しい部類に位置するまでになっている。
相楽の笑顔がこちらに向くと、ついこちらも和むのだ。
「もう決めるのは日取りだけってとこまでになってるよ」
「わあ、僕がいないうちに随分進んだんですねぇ」
「うんうん。瑠色くんと実くんが結構進行上手でね」
これは意外な才能だ、と塞は脳内にメモする。
「瑠璃花ちゃんとか隆治くんがいいところで質問やら合いの手やらを入れるから、とってもスムーズでさ。やっぱりこのクラスはいいね!」
相楽はクラスの実情をまだよく理解していないのかそう評する。前向きというかなんというか。けれど普段からこの調子なので、実情を知っても変わらないのではないか、と考えている。
まあ、場の空気はさして悪くはなかった。佐伯に苛立った様子も見られないし、吉祥寺も静か、葉松も黙って話を聞いている。詳細についてメモしているのか、がり勉と渾名される
ふと、教室を見回して気づく。隅の方で、縮まった星川が佐藤コンビと物静かながらいじめっ子側の男子、
さりげなく近づき、声をかける。
「ちょっと、何してるんですか?」
「うわぁっ」
塞の声に驚きの声を上げたのは声をかけた四人……ではなく、近くに座ってうつらうつらしていた人物。いつもぼんやりしている
その隣に座っていたさらさらストレートな髪の女子が迷惑そうに窪にじと目を向ける。
「ちょっとひさ、またうたた寝? 寝すぎじゃない?」
「んあー、ごめんるなちゃいたたたた」
「下の名前で呼ぶな」
「ごめ、ごめんらひゃい、いらい……」
下の名前で呼ばれることを好まない七篠と天然ボケの窪の喜劇を横目に見つつ、塞は星川といじめっ子勢三人の間に割って入った。
「ちょっと、何してたんですか?」
「何って別に、百物語の話が被んないように『相談』してただけだよ。なぁ? このは」
「ね、このはくん」
譲二の言に加えて釘を刺すように重ねる棗。はてさて本当に平穏な『相談』が為されていたのかは些か疑問である。星川は何も言わず、こくこくと首肯するばかりだったが。
「……このはくん、後で話しましょう」
塞はその場を穏便に収めるべく、星川にそうとだけ耳打ちした。
ぱんぱんぱん、と手を叩き、クラスの空気をこちらに向ける。ちょうど予鈴が鳴った。
「そろそろこの話切り上げて、授業の準備しましょう。もうすぐ先生来ちゃいます」
それは事実だった。予鈴も鳴ったのだし、と思ったのだが、葉松から不満が上がる。
「はぁ? あと日付だけだってのに。これだけ後回しにすんの? 信じらんねぇ」
「だねぇ」
珍しく大体のクラスメイトが葉松に同調して、うんうんと頷く。
一拍置いて、香久山がぽんと手をつく。
「それなら、塞くんがいない間に色々決めちゃったわけだし、日付は塞くんに決めてもらおうか」
反対の人ー、と間延びした声が問う。特に異論はないようで、みんな黙っていた。
「……それなら」
塞は一時の躊躇いを持ってから告げた。
「七月三十一日なんてどうかな」
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