第28話 窓

「……何だよ、これ」


 写真を持ち替える手が、痙攣するように震えた。


――これも、この写真も。これにも……


 紗和の写る写真全て。

彼女の身体にまとわりつくように、吸盤がレンズに向かって映っていた。


 見れば見るほど、その悍しい丸の集合体は、たこを連想させる。円形しか分からなかった最初の一枚から成長するように、足の輪郭まで見えるようになっていった。


「紗和」


 汗ばんだ素足に。

 髪が張り付いた肩に。

 恍惚の表情で此方を見つめる顔に――――全裸の女の身体の上を這う、軟体動物のいくつもの足。


 静止画のはずなのに、ズルズルと音を立てて這い回る様が見える。

滑らかな紗和の白い肌の上に、光る粘液を残しながら、蛸の足は締め上げるように巻き付いていく。


 健人は吐き気を覚え、同時に抑えがたい劣情が込み上げてくることに気づいていた。


 磯の香りがする。

 太腿に、乳房に、腹に、首に、離すまいと執着するかのように、強く食い込んでいく紐状の足。若々しく柔らかい女の肉は素直に形を変え、ゆっくりと這う生物を受け入れているように見えた。吸盤が吸い付いた痕は丸く残り、その場所は鬱血したように赤く、次第に紫へと変色していった。


 蛸は身体の色を様々に変えた。色だけでなく、複雑な斑点模様にさえ変わった。纏う衣を次々に着替えていくかのように、紗和を彩る色彩は変化し続ける。


 その一方で、紗和の表情は変わらなかった。乳房の先端を吸い上げられても、どんなに強く首を締め上げられても。


――写真なのだから当然だ


 セックスの直後にカメラを指して『撮って』と言い出したのは紗和だった。そんな趣味があったのかと茶化した健人に対して、憤慨したり照れる様子もなく、あの時彼女はただ懇願するように、『お願い』と続けた。


『これが置き換わったらだなんて、恐ろしくて想像もしたくない』


 こんなことを言っていた。ほとんど小声で、震えていた。あの震えは恐怖が生み出したものだったのだろう。


「紗和! 紗和! 紗和!」


 写真の向こう側の恋人に向けて、健人の声はいつしか咆哮になっていた。記者たちがアパートのドアぎりぎりのところで待機していた頃ならば、彼らは一斉にレコーダーを構えたことだろう。


「そこにいるのか? 紗和、お前はどこにいるんだ?」


 現実と空想、虚構と事実の境目が分からない。ついさっきまで長年疑うことすらなかった常識は、薄い吹硝子を床に叩きつけたように、一瞬で粉砕してしまった。

 

「返事をしてくれ……」


 今健人が手にしているのは、写真といえるのだろうか。静止した画像、過去の一瞬を切り取った静止画が写真という名を与えられるのであれば、それはもはや写真ではない。


 89mm✕127mmのL判写真と同じ大きさの薄っぺらい四角の中で、その軟体動物は蠢き続けているのだから、動画を映し出すディスプレイと呼ぶほうが正しいのではないか。


「いたんだろう? お前はずっとそこにいたんだ。ごめん、ごめん紗和。気づいてやれなかった。ごめんな。こんなに近くにいたのに。俺、ずっと在宅で仕事してたんだ。買い物だって行ってなかった。本当に家の中にずっと籠もっていたんだ。こんなにすぐ近くにいたのに。こんな」


――窓だ


 一つの名詞が頭に浮かんで、健人は叫んだ。


「どうやったら開くんだ⁉」


 開けてくれ、開けてくれと譫言のように続けた。その一枚では埒が明かないと覚るや、ダンボールの中に腕をつっこみ、次々に紗和の封じ込められる窓を摘み上げていった。


 鼻腔にまとわりつく磯の香りは、その場所が室内であることを曖昧にさせた。


 波の香り、夏の空気、湿度を飛ばしてはベタベタとした新たな湿り気を運んでくる海風。


――暑い、暑い、暑い、暑い


 炎天下の中では、生モノはすぐに腐ってしまう。


 汗を拭おうと腕を上げると、肩の傷がズキンと疼いた。つかんでいた何枚もの窓が滑り落ちて、バサバサと床に広がった。


 笑顔の、微笑を浮かべた、親しげに口角を上げた、何人もの紗和が健人を見上げてきた。


「どうやったら開くんだ」


 潮の香りが歪み、強烈に臭ってきたのは腐敗臭である。


――すぐに傷むに決まってるだろう。こんなに暑いのだから


 ボタボタと重みと粘度のある液体が落ちる音が聞こえた。健人は自分が嘔吐していることにも、床の上に吐瀉物を撒き散らしていることにも気づかないまま激しく咽た。


「開けてくれよ……!」


 倒れる身体を、砂が受け止めたように感じた。


 熱い。熱せられたフライパンの上に押し付けられるように、身体を起き上がらせることができない。


 僅かに残った世俗的とも言える常世とこよの意識の中で、健人は『死』の一文字、しの一音で表される概念を感じた。


 それを今自分にもたらそうとするもの、要するに死因となるものは何だろう。焼死か、窒息死か。脳も何もかも沸騰して死ぬのか。吐瀉物で気道が塞がれて死ぬのか。


「あ……はは……こんなときに」


 眼の前に広げられた自分の死に様のカードを眺めながら、健人は新たに提示された一つに気づいて、思わず笑いだしていた。けれど痛くなるほど膨らんだ自分の股間を見れば、その可能性が決して低くもないのだと納得もする。


 鼓動が早い。動悸の強さで舌が回りそうだ。腹上死、性交死、そんな呼称の死は、相手と交わっていない場合でもそう呼ばれるのだ。


 視野が点滅している。激しいストロボをまともに目にした直後のように、光の残像が離れない。


「紗和……紗和、出てこいよ。触りたい」


 手を伸ばしたのかどうか分からなかった。関節を動かした感覚は、すっかり分からなくなっている。けれど健人が願望をつぶやいた直後に、彼の腕に何かが触れた。


「紗和……」


 湿っていて、ぬるぬるしている。吸い付くようにぐるぐると腕に巻き付いた。ぐるぐるぐるぐると巻き付き、進み、首にまわったその長く柔らかいものは、半開きになったままの唇を割り、口内へと侵入してくる――――


 暑さが遠ざかった。

 五感は健人が感じ取れる範疇を凌駕し、言葉を変えれば消え去っていた。何も感じるものはない。


 虚無の彼方に漂う健人の意識は、最早誰のものなのか分からなかった。


――あれは誰だ?


 もしもその空間(空間と呼べるものがそこにあるという前提ではあるが)に時間があったとしたら、最後に放たれたものは、自分は誰であるのかを問う、そんな小さな疑問である。

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