第27話 吸盤

「写真ですか」


 受話音量を上げながら、健人はリクライニングチェアから起き上がった。通話相手は紗和の母親だった。


「はい。はい、もちろん」


 立ち上がってクローゼットを開け、上の棚から段ボール箱を降ろす。通話を続けながら、健人は箱の中から更に小さな箱を取り出していた。中に入っているのは、全て彼が撮った写真である。現像したものの、アルバムに整理しきれていないバラバラの写真で溢れている。


「いつ頃のものがいいとかは――――そうですか、直前のもの。はい、ありますよ。大丈夫です。データだったらこの後すぐに送ることもできますけど……そうですか。はい、はい。わかりました。それじゃあ、また」


 通話が終わり、無意識に大きな吐息が漏れた。


「……諦めてないわよ、か……」


 通話の中で紗和の母は、微かな笑い声と共にそう口にしていた。娘が戻ってくることを疑っていないと。

 彼女の用件は、『娘の写真をいくつか送ってくれないか』というものだった。紗和が行方不明になる直前から、そう時間があいていない頃のものがいいという。


『最近ようやく、普通の生活が戻ってきたからね。取材の人が大人しくなったから……健人くんの方もそう? そうしたら何だか、じっくり紗和の顔が見たくなって。健人くんが撮った写真のあの子、いい顔で写ってるでしょう。やっぱり大好きな彼氏に撮ってもらうのって、気分が違うのかしら』


 写真の中の紗和は、確かにいい表情をしていた。日付を見れば健人に“あの子”のことを打ち明けた後のものだが、あの頃の普段の紗和の表情よりも、幾段も明るい顔をしている。


『安心するの。健人に写真を撮ってもらうと、これで大丈夫って思える』


 そんな風に言っていた。理屈は分からないが、紗和が喜ぶなら何だって良かった。健人もシャッターを切る行為が好きだったのだから。


「どこにいるんだよ。早く戻ってこいよ」


 呟く声は、クーラーの音しかしない室内に吸い込まれるようにして消えていく。紗和が行方不明になった夏から、もうすぐ一年が経つのだ。


「皆待ってる。お母さんもお父さんも、弟くんも、紗和の友達や会社の人だって。俺だって……」


 写真ごしの恋人の顔を指で撫でた。


「小さいな。大きくプリントするか」


 いいかも知れない。健人は自分の思いつきに同意の相槌を打って、再び手元の写真に注目した。


――あれ?


 そして小さな違和感に、思わず息を潜めた。


「なんだこれ?」


 写真の片隅に、妙な模様を見つけた。蓮が咲き乱れる池の前で、紗和が微笑んでいる一枚である。紗和は写真の右側に立っていて、右端の彼女の手首の辺りに、微細な円状の模様が写り込んでいたのだった。


――汚れか?


 印刷して一通り確認した後、すぐに箱の中に入れたはずなので、汚れがつく暇はないはずなのだが。細かな水垢のように見えた。


服の端で拭ってみる。爪先で擦ってみる。しかし、汚れではなかった。


 レンズが汚れていたのだろうか。同じ時に撮った他の写真を確認しよう。健人の手が別の一枚を取った。そして彼は驚愕した。


「何だ?」


 蓮池の前。今度は紗和を中央に捉えた構図だ。風で舞い上がりそうになった帽子を、両手で咄嗟に抑えた彼女は可笑しそうに笑っている。


 紗和の腰、首、両腕から手首にかけて――おびただしい数の大小の白い円が点々とついていた。先程の一枚よりも広範囲に及んで数も多い。くっきりとしたその円は、真円のような形もあれば、楕円や歪んだ円形もあった。

それらはバラバラに散らばっているわけではなく、ある一定の秩序を持って並んでいるようだった。大きい円から小さい円へと。


 その並び方から彷彿とさせるのは、たこの吸盤だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る