第25話 空蝉

「傷の具合はどうだ」

「ちょっと動かしただけで、激痛ですよ」

「痺れるか」

「ええ、まあ。これはこのまま、今後も付き合い続けないといけないらしいです」


 病棟から外に出て、駐車場の反対側に回ると中庭がある。その場所から海岸が見渡せた。この病院は高台に位置しているのだ。


 健人と後藤は東屋のベンチに腰を下ろしていた。入院患者達が外の空気を吸えるようにと、整えられた場所である。車椅子や杖をついた患者たちが、見舞いに訪れた家族と談笑する姿がちらほら目につく。健人もそんな中の一人だった。


「指先まで動かせるんだから、ツイていたんですよ。あんなに深く刺さってたのに。もっと神経がやられていてもおかしくなかった。生きているのだって……」


 渋い表情のままの恩師に、健人は笑いかけた。


「きっと咄嗟に紗和が、急所を外してくれたんだ」


 反対の手で健人は自分の左肩に触れた。そこは包帯やらガーゼやらで何重にも固定されており、すっかり分厚くなっている。


「なあ、原くん。君を刺したのは、一体誰だったんだ?」


 初めての質問ではなかった。健人は間合いを入れずに回答した。


「ナイフを振り上げたのは、紗和でしたよ。これははっきり覚えてる……けど」

「警察には間宮さんとは、伝えなかっただろう」

「振り上げたのは紗和だった。でも、刺したのは男だったんです」

「……それなんだよなぁ」


 後藤は天を仰いだ。そんな恩師の細く骨張った肩を、健人は横目で捉えていた。


「いつの間に二人が入れ替わったのか。瞬きもしていなかったのに、俺には見えなかった。どういうことなのか、全然理解できない。いつの間にあの男がいたのか……分からない」


 二人はこの問答を、日に何度も繰り返してきた。お互いの反応を、喋り方の癖や間合いまで、すっかり覚えてしまうほどに。

 健人が入院してから、既に一週間が経つ。今日の午後に退院が決まっていた。


「手品みたいに一瞬で二人は入れ替わった。はっきり覚えているんです。俺の肩に、一気にナイフの刃を沈めてきたのは男だった。白く細い腕で。前髪が長いんですよ。顔がよく分からなかった。でも口端が震えていて、思い切り力んでいたのは明白でした。柄の根本まで、俺の肩に刃をねじ込もうとしていた。あいつは俺を殺そうとしていた」

「その間間宮さんは」

「男の後ろで、男と同じ姿勢をしていました。すごく不自然な格好だったから印象に残ってる。あれは、ナイフを突き立てている姿勢だった。手には何も持っていなかったし、刺す対象もいなかったけれど。腕がぶるぶる震えていて、すごく力を込めていることがわかりました。紗和の顔は……男の身体に隠れて見えませんでした」


 健人は五日前のことを思い出す。左肩の傷が作られるに至った一部始終だ。


 突然表情を恐怖に凍りつかせた紗和に呼びかけた。どうしたのかと。

しかし健人の声が聞こえていないかのように、暫くの間反応がなかったのだ。心配になって強めに名前を呼んだら、『呼ばないで』と返ってきた。酷く狼狽した声だった。

 そして――――


「何をしているのか訊く前に、紗和がナイフを取り出したんですよ。あのナイフ、あの日のバーベキューに使えそうだって、紗和が実家から持ってきたもので。その辺に置きっぱなしにして忘れたら危ないからって、身につけていたんです」

「間宮さんの家の物で、間違いないみたいだよ。警察から聞いた。でもどうやら、残ってた指紋は……」

「指紋についてわかったんですか」


 新しい情報に、健人は思わずベンチから立ち上がっていた。


「間宮さんの指紋の他に、彼女の家族のものと、それから誰のものか分からない指紋が一つ。この身元不明の指紋が、一番くっきり残っているみたいだ」


 背中が粟立つのを感じた。ズキズキと傷口が疼き出す。


「正体不明の指紋?」

「原くんを刺した男と、僕が目撃した男。彼が指紋の主なんじゃないかな」


 健人をベンチに座らせ、後藤は教え子の背を擦った。


「……すまない。もっと僕が、すぐに動いていれば」


 後藤は静かに後悔を口にした。

 一週間前。買い出しから戻った車から降車し、どっさり買い込んだ食材やら酒やらを、トランクから下ろしている最中のことだった。


 数台が駐車してあった駐車場の端に向かって、足早に駆ける一組の男女を、視界の端に捉えたのだ。


『間宮さん?』


 声をかけたが、彼女の足は止まらなかった。腕を引く男は後藤の知らない人物だった。不穏と違和感を覚えたが、後藤の足が二人が乗り込んだ車へと向かう前に、同行していたゼミ生の一人が悲鳴を上げたのだった。


『先生! 原先輩が倒れてる!』


 びっくりして健人の方へと顔を向けた。その間に、車は駐車場から走り去ったのだった。ナンバーを確認しようと追いかけたが、その車のナンバープレートは外れていた。


「ナンバーのない車なんて、すぐに見つかりそうだろう? だけどどこにも……捨てられた形跡すら残ってない。それどころかどこの監視カメラにも、どの車のドライブレコーダーにも映ってないんだ」


 あの時駐車場から走り去っていく車は、後藤とゼミ生の他にも、付近でバーベキューをしていた団体も目撃していた。

更にバーベキュー客の一人は、あの時荷物を取りに駐車場まで戻っていて、紗和と男が乗り込む姿を二つ隣の駐車スペースから確認していたのだ。紗和が鉢巻のような長い布で目隠しをしていたので、印象的だったと証言している。


『スイカ割りでもしてたのかなぁとも思ったんです。海だし、僕たちもバーベキューしながらやってたし。女の子は、抵抗してるって様子ではなかったですよ……自分からドアを開けて車に乗っていたんですよ? でもなんだかフラフラしていて、男の方は始終ニヤニヤしていた。ちょっと異常な雰囲気ではありましたね……血? いや、そんなものはついてなかったと思うけど』


 車が走り去ってすぐに、『警察と救急車を!』と怒鳴る声で、辺りは騒然となったのだった。


「紗和は今どこにいるんでしょう」

「……」

「あいつは誰なんだ」

「……」


 後藤には到底答えられない質問だった。健人が学生の頃には、彼からの質問には何かしらの返答ができたはずなのに。


「紗和の妄想じゃなかったってことですか?」

「……分からない。すまない、僕にも分からない……」

「もっと紗和に聞いておくべきでした。記憶の中で追いかけてくる男の特徴を……今更ですよね」


 紗和が怯えていた記憶の中の“あの子”――――あの男があの子なのだろうか。確かな実体を持って、健人を刺したあの男が。


 健人にも後藤にも分からなかった。

二人は沈黙し、寒蝉の音が聞こえるばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る