第23話 チッタ

 チッタ チッタ チッタ


 秒針が進む音。言葉を覚える前の幼児が、舌を弾き鳴らして遊ぶ音にも聞こえる。あるいは誰かの鼓動の音だろうか。


 チッタ チッタ チッタ


 機械音のように規則的で、血の通った肉体の音のような生々しさを含んでいる。


 チッタ チッタ チッタ


 目が見えない。

 触覚もなく、手足も首を動かす感覚もない。横になっているのか、立っているのかすら曖昧だ。


 チッタ チッタ チッタ


 聴覚だけが生きている。

全ての意識がそこへ向かっているからだろうか。本来なら味覚触覚視覚それぞれから得るべき情報が、聴覚一つへと傾れ込んでいた。


――これは砂を蹴る音


 チッタ チッタ チッタ


 断言できなかったが、紗和は確かに、砂の上を走る自分の足のイメージを持っていた。

 誰かに腕を引かれながら、一緒に走っている。砂の上は走りづらい。何度も転びそうになりながら、しかし速度を落とすことなく、紗和達は駐車場までたどり着いていた。


――煙の臭いだ


 誰かがバーベキューをしているのだろう。嗅覚が蘇って、途端に視界も明瞭になっていった。


 チッタ チッタ チッタ


 車のドアを開け、中へ滑り込む。炎天下の中駐車していた車内は、可視化できるのではないかと錯覚するほどの熱が充満していた。


 チッタ チッタ チッタ


「間宮さん?」


 少し離れた場所から、後藤の声が聞こえた気がした。困惑しているようだった。


 ドアが閉まるより早く、エンジンが唸った。そして紗和がシートベルトに手を伸ばすより早く、車は発車した。



 チッタ チッタ チッタ



 朧げに視野が開けてきた。



 チッタ チッタ チッタ



 紗和が乗っているのは助手席だった。



 チッタ チッタ チッタ



 窓は締め切っていて、エアコンはつけたばかり。息を吸い込むと、熱気が気道に入り込んでくる。



 チッタ チッタ チッタ



 窓の外を景色が流れていく。今日もよく晴れている。宮殿のような入道雲が目に入った。


「チッタ、チッタ、チッタ」


 舌の動きだけでその音は出せる。唇は動かない。

 運転席から愉快そうな声音がした。


「そう。僕はそこから生まれて、君を連れてそこへ帰るんだ。やっと思い出してくれたんだね」


 citta


 蝉の音が鳴り止まない。彼らの歌は刹那の愛の歌だ。波の音のように恒久には続かないだろう。


「チッタ、チッタ、チッタ、チッタ……」


 何でもない田舎の夏。

平穏な風景の中に騒々しいサイレンの音が聞こえてくる頃には、紗和はそこにいなかった。

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