第22話 混濁

『君は僕を追い出したいの?』


 耳に蘇る声を、無理に追いやろうとはしなかった。砂を掘りながら聞こえてくるその声は、少しずつ生々しい温度を持ってくる。


『できないと思うよ』

「いいえ」


 健人の目が紗和へ向いた。唐突な紗和の言葉の意味を探ろうとせず、彼はスコップから手を離してカメラのシャッターを切った。


「ありがとう、健人」

「大丈夫だ。いくら飛んでもいい。その度に写真を撮るから」

「うん」


 健人がシャッターを切る度、その音を紗和の耳がとらえる度、その男の気配は薄くなる――――紗和は自分の心に、そんな暗示をかけていった。後藤の助言によるものだ。


『思い込みの力は侮れないものだよ。偽薬の効果を知ってる? 実はただの整腸剤なのに、痛み止めだと信じ切って投薬されると、モルヒネ並の効果がもたらされるって話。聞いたことない? 人間の心なんて、簡単に騙される』


――そもそもあの子は、最初からいなかったんだろうか


 確かにあの日、この場所で出会ったあの少年。もしかしたらあの最初の場面から、実は紗和の思い込みでしかなかったのかも知れない。一緒に砂遊びした少年などいなくて、彼といた父親のことも、別の大人と勘違いしていたのかもしれない。


――お母さんは男の子のことなんて、何も覚えていないって言ってた


 あの日の母の記憶には、浮き輪ごとひっくり返って流されていく弟の姿しか残っていないのだ。紗和が何度確認しても同じだった。


――全ては私が作り出した虚像


 だったら消し去ることができるのも、紗和の心一つのはずだ。


――最初からあなたはいなかった


『いなかったんでしょう?』


 ひっくり返したバケツの形そのままに、砂の砦が姿を現していた。健人の口笛が聞こえた。


――自分の思い込みに何年も振り回されて。バカみたい


 どれだけの時間を無駄にしただろう。ただの思いこみでしかない、透明な恐怖のために。


――本当にバカバカしい


 水分量を計算した砂は、簡単に形を崩すことはなかった。紗和の指先が城の窓をあけていくが、その場所からヒビが広がっていく気配はない。


――もう惑わされない


 シャッター音を生み出す、大好きな恋人の指。細く青白いあの男の指先とは正反対の、血の通った人の指だった。


『私はあなたを追い出せる。だってあなたは、いないのだから。私の記憶は私だけのものだもの』


 決定的な一言を放ったはずだ。

それはこの世のどんな呪文よりも強力で、数々の旅行先を紗和に提供してきた世界を統べる者の言葉だ。その呪文一つで、紗和の意思に沿わない存在は消し去れるはずなのだ。


 それなのに。




――笑ってる


 腹を抱えて大笑いしている人の声だ。あまりに可笑しくて可笑しくて、遂に立っていられずに地面を転げ回りながら、それでもこみ上げる笑いを止められない。そんな声だった。


――狂ってる


 度を超えた狂気の笑い声は、当事者以外には時に脅威に感じられるものである。

この笑い声は、そういったものだった。

そして脅威に感じているのは紗和で、それは彼女にとって理解し難い事実だった。

なぜなら笑い転げている人物が存在するのは、紗和の意識の中なのだから。


――止められない


 何でも自由にできるはずだった。紗和の意識を支配できるのは、紗和自身なのだから。


――止められない


 健人のカメラのレンズが、こちらを向いている。

丸い硝子に写るのは紗和の顔。その顔は恐怖に歪んでいた。


――酷い顔


 あまりに醜い表情は、更に酷いものになっていく。血の気が引いていくのが理解できた。きっと顔色は真っ青だ。


『ね? 無理だったでしょう』


 背後に聞こえる足音は、砂を蹴りながら近づいてくる。


『何でも思い通りにできるなんて、ただの驕りだよ。人ってすぐに思い込むし、驕り高ぶるし、本当に滑稽だよね』


 肩に手が置かれた。

耳元に生暖かい吐息がかかる。


『でもそこが愛おしい』


 頬を擽るのは、紗和自身の髪ではない。別の誰かの毛先だった。


『愛おしいんだ。紗和』


 連射音が鳴り止まない。レンズの向こう側で、表情が固まった自分の顔が此方を見ていた。


『教えてあげるよ、僕のこと。ずっと呼んでほしかった』


 最後に残った意思の欠片をかき集めた紗和ができたことは、肩から提げたサコッシュの中から、折り畳みナイフを引っ張り出すことだった。


『一緒にお城に住もう』


 カメラを下げて確認できた人物の顔は、全幅の信頼を寄せる恋人のものではなかった。


「紗和」

「やめて。呼ばないで」

「紗和」

「やめて」


 声が違う。

その声は、紗和を戦慄させ、何度も恐慌の底へと突き落としてきたものだった。


――消えて!


 力の限り振り下ろした右手が、反動として伝わる衝撃を受け止めようとした。溢れた衝撃は肘へ、肩へと伝わり、瞬く間に紗和の脳を震わせる。


 響鳴はサイレンのような波を広げ、人の声であることを曖昧にさせた。


 サンダルを脱ぎ捨てた足裏に、灼熱の砂が焼け付くようにまとわりつく。

紗和は走っていた。浜の上をこんな速度で移動できることを初めて知って、その新鮮さと爽快さに涙が溢れた。嬉しいのか怖いのか、相反する感情のはずなのに曖昧に混ざっていく。


 混濁した色水は、もう元に分別することは不可能だった。

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