第20話 忘れていたこと

 砂遊びセットも持ってこなかったので、紗和は手だけで砂を掘っていた。爪は切ったばかりだ。間に砂粒が入り込む心配はしなくていい。


 ぐんぐん掘り進めてくと、じきに砂は湿り気を帯びてきて、底の方から海水が滲み出て来る。このくらいまで掘ったら、少し場所をずらして再び同じくらいの深さまで掘っていく……


 そんな作業を繰り返して、どれくらい経っただろうか。紗和はすぐそばから、人の気配を感じた。誰なのかは、既に知っている。


『君はおしゃべりだね』


 低い声。少年の声ではなかった。

自分の前に立っている人物の背丈も、子供のものではない。

 紗和は自分も子供の頃の姿ではないことに気づいた。たった今研究室にいるはずの服装と、全く同じなのだ。


『また別の人に、僕のこと喋ったでしょう』


 嗜めるように聞こえたが、口調は柔らかい。

 悪寒を感じた。肩をこわばらせる。眼の前の人物に気取られないように。


『……まぁいいや。お城作ろうか。久しぶりだよね、ここで会うの』


 手首を掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。紗和は小さく悲鳴を上げた気がしたが、自分の叫び声は聞こえなかった。


「紗和? 大丈夫か」


 健人の声が聞こえる。そして紗和は、左手を包み込む彼の長い指を握り返せることを思い出したのだった。


――大丈夫。ここは研究室。海じゃない。これはただの私の空想……


『もう少しいいでしょう?』


 顔は見る気にならない。視線を下にずらしたまま、紗和はその人の声を聞いていた。薄い唇が動いていた。


「間宮さん。もうちょっと留まれる?」


 後藤の声だ。


『ほら、教授もそう言ってることだしさ』

「彼は出てきたか?」

『いるよここに』

「……います」


 二人分の手が、砂を掻く音がする。

蚊よけキャンドルの独特な香りと潮の香りが混ざっている。


『君は僕を追い出したいの?』


 彼の手は大人の男の手だった。しかしその手が作り出しているのは、あの時の少年の手が作っていたものと同じ、円柱の砦である。型も何も道具は使っていないのに、見事な美しさだった。あの時と同じように、紗和はその出来栄えに見惚れていた。


『きっとそれは出来ないと思うよ』

「どうして?」


 砂を掘る手は止めないまま、紗和の目は彼の手元に注がれていた。美しい造形物を次々生み出していく、白い二本の手に。


『この城に住めたらいいのにね』


 ザーッと大きな音が聞こえる。


――波が引いていく


「間宮さん、彼の顔を見れるか。目を見れるか」


 後藤の声に従うように、紗和は目線を上げた。側の男の口元から、鼻筋、そして瞳へと。


『この中で遊べたら、絶対楽しいよね』


 蘇ったその声は、その男のものでも、あの少年のものでもなかった。あどけない少女のものだ。


『小さくなって入れたらいいのになあ』


 楽しそうに弾んでいるのは、紗和の声である。今よりもずっと幼く、警戒心など微塵もない。


『本当に二人でこのお城に入れたら、どうする?』


 少年の声に重なっていくのは、男の声だった。


『お伽話でいう、めでたしめでたしになるんだよね。ずっと幸せに暮らしましたって』


 手を叩いて喜んでいる自分の姿が目に入った。水玉のワンピース姿の少女は、確かに小学二年生のあの日の紗和だった。


『じゃあそうしようよ』


 少年の声はもう聞こえなかった。嬉しそうに含み笑いをしているのは、不気味な若い男だった。


――だめ。紗和。だめ


 確かに声に出したはずなのに、やはり紗和の耳は自分の声だけをとらえることが出来なかった。


『どうやって?』


 少女の無邪気な質問だった。


――だめ!


 記憶とはいい加減なものではなかったのか。なぜ自分の妄想を覆すことができないのだろう。まるで金縛りにあった身体のようだった。


『誰かあ! 大変! 助けて!』


 母の悲鳴が聞こえた。全ての意識がそちらへ持っていかれて、次に紗和の目が見たのは、小さな浮き輪の真ん中に海面からまっすぐ伸びる、幼児の二本の足だった。ゆらゆらと揺れながら、その悠長な揺れ方とは対照的に、スーッと確実な速さで沖へと運ばれていく。


『子供が流されてる! いやあ! 誰かあ!』

「大丈夫だよ、お母さん。助かるから」


「紗和」


「助かるから。溺れないよ」


「紗和」

「間宮さん」


 瞼を上げると、此方を覗き込む二人の人物の顔が目に入った。

薄暗い。真昼の浜辺から、紗和は帰還していたのだ。


「大丈夫か」

「うん」


 健人が腕を引いて、リクライニングチェアから上体を起き上がらせてくれた。


「最後のほうは眠りかけていたね」


 水を注いだグラスを受け取りながら、後藤の言葉に紗和は頷く。


「はい……多分、ほぼ眠っていたと思います」


 紗和が見ていた後半の映像は、頭の中で回想していたものではなく、夢だったのだろう。境界線は分からなかった。


「例の男の顔は、確認できたかな?」

 

 後藤の質問に、しばし考え、そして紗和は首を振る。

最近は彼が出てきても、恐怖心から顔を見ることを躊躇していた。その癖が抜けないのだった。


「……でも、今まで忘れていたことを思い出しました」


 たった今見て来た光景を振り返る。


「……正しい記憶なのか自信はないけれど。私、砂の城について彼と話をしていたんです」

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