第19話 ヒプノセラピー

「どうぞお入りなさい」


 研究室のドアをノックして、程なく内側から声が返ってきた。男性にしては高く、柔らかい声音である。


「やあ、よく来たね」

「お世話になります」

「ごちゃごちゃしてて申し訳ない。片付けようと、一応試みてはみたんだけど」


 悪びれずに笑いながら、部屋の主は紗和に部屋の奥に据えられた一脚のリクライニングチェアに座るように促した。そして部屋の隅から二脚のパイプ椅子を引っ張り出すと、そのうちの一つを健人に手渡した。


「先生、本当に片付けようとしましたか?」


 健人に先生と呼ばれた人物は、わざとらしく肩を竦めた。


「一応の社交辞令だよ。この研究室が万年整理整頓とは縁遠いことは、君はよく知ってるだろう。ここのゼミ生だったんだから」

「俺がいたときより酷くなってますよ。まだそんなに経ってないのに。先週よりは……見える床の面積は増えてますけど」

「健人。大丈夫だよ」


 笑いながら紗和は、一度座った椅子から立ち上がり、再び部屋の主に頭を下げた。


「後藤先生。お忙しいのに、すみません。よろしくお願いします」

「ああ。いいのいいの。心配しないで。別に僕、忙しくないし。悲しいことに」


 五十代に差し掛かったばかりだというその男は、健人の学生時代の担当教官だという。疎い分野なので紗和は説明を聞いてもピンとこなかったが、心理学と哲学の境界辺りを専門としているらしい。


「それに間宮さんの中で起こっていることは、個人的に大変興味をひかれるからね。たとえ優先しないといけない仕事が溜まってたとしても、此方から協力を願い出てるさ」


 衣服の上からでも分かるほどにガリガリだ。実年齢よりも老けて見えるのは、肌艶が良くないせいだろう。普段から私生活をないがしろにしがちであるという話は、紗和も健人から聞き及んでいた。


「私……どうにかなりますか?」


 健人の紹介によって訪れるようになったこの研究室で、紗和は自分に起きた異変について、一通りの説明を済ませていた。


 昔から過去の記憶を回想して楽しむ癖があったこと。過去の記憶は、かなり幼い頃のものでも鮮明に覚えていること。ある日記憶の中の少年に“見つかってしまった”こと。彼が紗和の記憶を経由して、追いかけてくること――――


「そうだねえ」


 紗和の話は、一冊のノートに詳細にまとめ上げられていた。パソコンのモニターは長時間見ていられないという後藤が鉛筆で書きなぐったページには、所々絵のような記号が記されていた。


「今まで君が受診してきたクリニックの先生方の認識は、外れてはいないと思う。統合失調症とは別物だし、妄想性障害とも言えない。明確な病名はおそらく見つからないだろう」


 無言で落胆する紗和の前に、湯気を立てるマグカップがおかれた。


「……気を取り直そう。僕なりの問題へのアプローチはさせてもらうから。それ、カモミルクね。カモミールの牛乳出しだよ。リラックスできるから、ぜひどうぞ」

「ありがとうございます」


 カップを持ち上げると、花の香りが顔を包み込んできた。


「飲み終えたら、椅子の上に横になっててね。少し部屋を暗くしておこうか」


 遮光カーテンを下ろし、蛍光灯を消してしまうと、途端に研究室は暗闇へと沈んだ。今日はこの場所で、催眠療法を試すことになっていた。


「暗すぎますよ、先生。何も見えない」

「そうだ、そこに蚊よけキャンドルあっただろう。原くん、その机の足元らへん」

「足元ごちゃごちゃしてて……ああ、これか」


 後藤と健人のやり取りを聞きながら、紗和は緊張が解けていくことを感じていた。カモミールの香りを吸い込みながら、リクライニングチェアの分厚い背もたれに体重を預ける。


「さあ、間宮さん。目を閉じて。出かけてみようか」


 空になったマグカップから、そっと指を外されたことが分かった。カップが机に置かれた音が聞こえて、直後に紗和の手を包み込むように握ったのは健人の手である。


「大丈夫。手、ずっと繋いでるから」


 健人の両手で包み込まれていることが分かった。紗和は静かにうなずいた。


「小学二年生の夏の日。君は砂浜で、砂のお城を作っている――――」


 いってらっしゃい、と後藤の声が遠くで聞こえた。

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