第18話 涎
「本当にいいの?」
紗和は健人の問いかけに、静かに頷いた。シャッターを切る音が聞こえて、小さく安堵を感じた。薄暗い部屋の中に、一瞬だけ眩い白い光が起こる。
「涎拭いてなかった」
指の腹で口端を拭われて、紗和は小さく笑った。
「涎なんて垂れてた?」
「証拠写真撮れちゃったよ。見る?」
「今はいいや」
長く激しい行為の後で、身体が重かった。汗で額にまとわりつく前髪が鬱陶しい。シャワーを浴びに行きたかったが、このままベッドに沈み込みたくもなる。たった今耳が捉えたシャッター音が、恍惚と快感の波の終わりに、最大の安心感を紗和にもたらしていた。
「惚けた顔してる」
液晶モニターに映し出される写真を眺めながら、健人は笑っている。
「だって最後、凄かったし」
「紗和のこの顔好きだよ」
カメラを置いて、隣に潜り込みながら健人の手は紗和を再びかき抱いていた。
「油断しきった顔してる。煽られる。もう一度したくなる」
「健人は元気だね」
「紗和が体力なさすぎなんだ」
可笑しそうに笑ったものの、ふと健人は上体を上げて腕の中の紗和を見下ろした。虚ろな瞳が見返してきた。
「やっぱり、もう休もうか」
「しないの?」
「疲れたんだろ」
「いいよ。むしろ最後、そのまま意識とばしてしまいたい」
下から伸びてきた紗和の腕が、健人の首に絡みついて彼を引き寄せた。短い口づけの後、唇を離しきらないまま彼女は囁いた。
「今写真撮ってくれたから、安心なの。今日は何となく、来そうな予感がしていたから。今日はもう大丈夫だと思うけど……でもやっぱり心配だから、健人で頭がいっぱいのまま、気持ち良くて訳が分からないまま眠りたい」
最後の方はまるで懇願のようだった。
「……なあ、次に後藤先生のとこ行くのいつだっけ? また俺もついてくよ」
「お願い。健人」
ベッドのスプリング音と、下へと沈む感覚が伝わってくる。紗和の腕に引き寄せられた。彼女の指が縋り付くように皮膚の上を這っていく。扇状的なその動きに応えつつ、健人は虚ろな恋人の瞳の奥を探ろうとしていた。
――誰なんだ
紗和を追いかけてくるという男。紗和は小学二年生のあの夏の日に出会った少年だと言っていた、その男。紗和がその男に悩まされるようになってから、既に三年の月日が経っていた。
――解放しろ
紗和との情事の合間に、健人は呪文のように唱えるようになっていた。
――消えろ
大きな変化があったわけではない。
付き合い出した夏休みに、紗和の地元を訪れた後からだった。紗和は時折、唐突に怯えた表情を浮かべるようになった。
健人が面白い趣味だと思っていた、脳内時間旅行も自発的にはしなくなった。
「健人、健人」
頼られることも、甘えられることも健人は好きだ。こうやって縋り付かれ、切なげに名前を呼ばれることも。
しかし自分以外との交友関係を殆ど疎かにしていることを知っていたし、それを紗和自身が不本意に感じていることも、健人は分かっていた。そしてそうせざるをえない理由も知っている。紗和は思い出を作ることを怖がり、強烈な印象を受ける場面に立ち合おうとしなくなった。
――消えろ。消えろよ
救いたかった。唐突に見せる怯えた表情を拭い去りたかった。先程の涎のように。
健人からは見えない紗和の内側で、何が起こっているのかは分からない。精神的な問題であれば、専門家の力を借りなければならないだろう。病院の受診とカウンセリングを勧めたのは健人だったが、目に見えるような成果は今のところ何もなかった。
健人の理性を煮え立たせる嬌声が、紗和の口から垂れ流されている。まともに言葉になりきらない音の切れ間から、切実な懇願は続いていた。
「おかしくして……! お願い!」
「さわ……っ」
自分の荒い呼吸音をうるさく感じながら、紗和の意識を繋ぎ止めるように、健人は恋人の身体を強く引き寄せた。
「ここにいる……俺はここにいるから」
「このまま……とばして……! お願い……おかしくして、健人……怖い……ッ」
背を反らしてぶるぶると震えたのは、性的な絶頂を迎えたからではないかもしれない。健人の胸の上へと落ちてきた紗和の身体は、すっかり脱力しきっていた。何も表情を作らない寝顔は、蝋人形のように蒼白だった。
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