第17話 息継ぎ

 しばらくして紗和は、嬉しい事実を発見した。


――健人だけは置き換わらない


 ふと足を踏み入れてしまう記憶の旅先で、は様々な人物に置き換わって、紗和の前に姿を現した。

 友人、家族、赤の他人……性別も関係ない。

 しかし健人だけは健人のまま、記憶の中で変化しなかったのだ。


 その事実に紗和は縋りついた。

四方を出口のない壁で囲われた密室の中に、かろうじて身体をねじ込ませられる外界へと通じる通気口を、見つけられたようなものだ。


 だからこそ、健人と出会う以前の過去に迷いこんだ時の絶望感は、凄まじいものだった。


 探しても探しても、見つかるのは“あの子”ばかり。

あの子は紗和に接近し、紗和に触れ、紗和に話しかけた。接触を繰り返す度に、その感触や声は明瞭に感じられるようになっていくことを、紗和は恐怖と共に実感していくのだった。


 ただの記憶のはずなのに、実際に触れられたように紗和の触覚はその湿っぽい人間の皮膚の感触を覚えていた。

それは不可解で、酷く不気味な感情を身体の内から呼ぶものだった。


――写真


 健人のカメラで撮影した、思い出の場所の写真。それらは紗和にとって、不穏を消し去る護符のような存在になっていた。

 健人と出会う以前の記憶を、彼と出会った後の時間に繋げる役割を果たしてくれるのだ。


 記憶の中で“あの子”に見つかる度、紗和は写真を見た。


 写真の中で、瞬間は画像として永遠に切り取られ、固定されている。その固定された瞬間とは、“あの子”が紗和を見つけた地点よりも先の時間の中にあり、その時間の中の紗和の世界には、既に健人が存在しているのだ。


 だから紗和は、健人が写真を撮った思い出の場所を記憶の中で上書きしようと試みることができたし、完全に記憶を誤魔化すことが出来なくとも、古い記憶の上から層を重ねることが出来るのだ。そうすることで、健人という“あの子”に置き換わらない唯一の存在に、救いを求めることが可能になるのだ。


「写真を撮りに行こう」


 時間を見つけては、紗和は時間旅行の定番スポットへ健人を誘った。


「健人に撮ってほしいの」


 彼の手でシャッターを切る行為は、その瞬間を支配する者が健人であることの証明なのだ。紗和にとっての絶対の安心は、健人が撮る画像の中に自分が映り込むことで確立した。


――逃げなければ


 記憶の中の安全地点を増やし、健人に届く足場を一つでも獲得しなければいけない。


 泳ぎは得意ではなかった。

足の付かない場所では、どんどんパニックに陥っていく。もがけばもがくほど、悪循環だ。

足裏が砂を捉えられる場所で、息継ぎを続ける必要があった。さもなくば、紗和はすぐに溺れるだろう。


 溺れたら捕まる。息継ぎができなくなったら、そこで捕まる。


――逃げなければ


 捕まったら、どうなるのか?


 恐ろしい想像の先を、紗和は考えることを必死に拒否し続けた。

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