第11話 あの子

 初めてこの町の海水浴場で泳いだ時、紗和はまだ五歳だった。

 弟が生まれたばかりだったので、伯父の家に預けられることが多く、その日も従兄弟達と一緒に遊びに来ていたのだ。


 浮き輪の上に仰向けになり、波の上で漂う。健人と同じように、紗和もそんな遊びが好きだった。


 ただ、ふと不安になるのだ。

従兄弟たちのにぎやかな会話が途切れた瞬間。他の皆が一斉に水の中に潜り込んで、気配が消えた瞬間。


 年少の紗和を放って従兄弟や伯父達が側を離れることは決してなかったし、そんなことが起こることを、紗和本人も全く心配していなかったにもかかわらず。


――このまま一人、忘れられてしまったら


 当時は言葉として表現できなかった、漠然とした不安。そんなものに、時折襲われたものだ。海の上で漂っていると、どうしてもそんな感情を無視できない。


 浮き輪の上からふと顔を上げると、周りに誰も見当たらない。

陸は既に遠くなっていて、いくら水を蹴っても近づくことはできない。絶望を自覚する間に、周囲から浜の色がすっかり消え、空の青と海の黒だけがこの世の全てになっていく。


 そんな恐ろしい妄想に、不意にとらわれるのだ。

 だから海の上は苦手だった。


 いつしか紗和は、誘われない限り海に入って遊ぶことがなくなっていた。友人たちと騒ぐ時も、足裏が確実に砂を捕まえることができる場所までと決めていた。


 五歳の記憶の中で、紗和は浮き輪から首をもたげて泣いていた。側で立ち泳ぎしていた小学生の従兄弟は、この時も浮き輪の紐を握ったまま、すぐ隣で潜って遊んでいただけなのだが。そんなことに気づかない紗和は、わあわあ泣いた。


『ネエ』


 誰かが呼んだ。

そちらを向くと、従兄弟ではない人物が海面から顔だけを出して、紗和を見ていた。五歳の紗和と同じくらいの年の頃だと思われた。


――え?


 その顔に見覚えがあったが、従兄弟ではない。


「ああ、ダメだ。崩れてきちゃった」


 健人の笑い声に、紗和の意識は旅先から舞い戻る。十五年の年月を飛び越え、現在へと。


「紗和。また飛んでただろ」

「分かった……?」

「いつも分かるよ。変な顔してるもん。手だって止まってるし」


 整えていた砂山は、無惨に崩れ落ちていた。水分が足りなかったのだ。


「この砂で城なんて作れるの? 結構難しいんじゃないのか? そんなに細かい粒じゃないだろう」

「そうなんだよね」


 手についた砂を払い落としながら、紗和は頷く。よくサンドアートなどで見られるような粒子の細かい砂とは違い、この辺りの浜の砂は荒いのだ。僅かに湿り気を失っただけで、あっさり形を崩してしまう。


「なのにあの子、とっても綺麗な形にお城を作れてた」

 

 弟が溺れかけた日のことを思い出して、そして、紗和ははっとした。


「あの子」


 驚愕の事実を発見して、言葉の続きを失った。


「どうした」


 首をかしげる健人の表情は、不思議そうではあるものの、深刻げではなかった。彼は紗和の心の内など知らないまま、再び砂山作りを再開させていた。


――あの子だ。あの子だった


 ついさっきまで訪れていた旅先の記憶を手繰り寄せる。十五年前の海面から見えた顔。その顔は、十二年前に初めて出会ったはずの、あの子のものだった。


 そして同時に、今朝寝覚めに覚えた違和感の原因を、ついに思い出したのだった。


――ベビーカーの日除けを開けたのも、あの子……


 赤ん坊の目で認めた顔は、初対面の頃の彼よりも随分幼かった。彼の方も、赤ん坊だったのではないか。しかし、絶対に、見間違えるはずもなく――――あの子の顔だった。


――どうして?


 ただの妄想のようなものだろう。

そう片付けてしまうには、納得がいかないと紗和の心が叫んでいた。

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