第10話 海

「どうした? 紗和」

 

 呼びかけに反応しない恋人を訝しみながら、健人は彼女の手を握った。


「どうしたの」


 顔を覗き込んで、ようやくその瞳が此方に焦点をあてたことが分かった。


「あ、ごめん」


 ぼんやりした瞳孔から曇りが消え、光が宿ったかのようだった。表情の変わりように、健人は静かに息を呑んだ。


「大丈夫? どっか具合でも悪いの?」


 今朝から少し様子は変だと感じていた。ぼうっとしていることが多い。


「……そうなのかも。朝起きたとき、ちょっと身体も変だったし」

「そういうこと早く言えよ。帰って休もう」

「ううん。大丈夫。熱もなかったし」

「紗和」

「せっかくここまで来たんだから」


 紗和は健人に笑いかけ、わざとらしくぐんぐん歩調を上げていく。


「無理するな」

「本当に平気なの。ちょっと寝覚めが悪かっただけだと思うから。今日も暑いもん。きっと夏バテだよ」


 言い合いながらも足を止めなかった。サンダルの二人の足は、砂の感触を捉えていた。


「ほら、着いたよ」


 紗和は健人の腕を引いた。


「海だよ! 健人が一番楽しみにしていた場所でしょ」




***




 健人の地元は内陸県なので、昔から海に馴染みがなかった。


「暑いなあ」

「サンダル履いてないと、歩くこともできないでしょ」

「フライパンみたいだ」

「健人泳げる?」

「水泳は習ってたけど」


 乾いた砂の上に荷物をまとめ、波が打ち寄せるぎりぎりの場所にサンダルを脱ぎ捨てた。「あちち」と踊るように跳ねながら、二人は水の中へ逃げ込んだ。


 足が届かない深さまで、あっと言う間だ。この辺りは波打ち際から突然深くなる箇所が続くので、油断してはいけないと子どもたちも知っている。


「ぼーっとしてるだけで十分だなあ」


 浮き輪の上で仰向けになり、ただ波に揺さぶられるがままに任せる。

視界には青く晴れ渡る夏の空。たまに滑空する鳥の姿が見えた。波の音は緩やかで規則的であり、自動再生された何かの機械音のように錯覚してしまいそうだと、健人は考えていた。


「本当にぼけっとしてたら危ないよ。プールじゃないんだから」


 浮き輪から伸びるロープを引きながら、紗和は笑った。


「どんどん沖に連れて行かれちゃう」

「生き物みたいに言うんだな」

「海って、そんな風に見えない? 波は止まらないし、力強くて、本当に意思を持ってるみたい」


 ロープを腕に巻きつけて、紗和は浅い方へ浅い方へと腕をかいた。


「海は怖いよ」


 濡れそぼつ身体のまま、二人はタープが作る日陰へと走った。海から追いかけて来るかのように、潮風が全身に纏わりついてくる。


「もっと暑くて仕方ないかと思ってたけど、案外過ごしやすいんだな」

「日陰はね。海風が来るから」

「弟さんがさらわれかけたのって、このあたりなの?」

「うん」


 紗和は頷いて、小さな駐車場の辺りを指さした。そこは先程二人がこの海水浴場に入ってきた県道沿いにあり、側には浜から出っ張った監視台があった。


「ここらへんだよ。駐車場からちょっと歩いて、テトラポットが目の前にあったと思うから……うん、確かにここ。この砂浜で、私はお城を作ってた」


 小さなレジャーシートに腰をおろしたまま、紗和の片手が砂を掘り始めた。掘り始めて間もなく、下から湿った砂が現れる。


「紗和」


 顔を上げると、シャッターが切られる音が聞こえた。

 真ん丸のレンズに水着姿の自分が写っている。紗和はふと、そんな自分の背後に、もう一人誰かが見えた気がして振り返った。


「どうした?」


 浜には紗和と健人の二人しか、海水浴客は見当たらなかった。駐車場には数台の車が停まっていたが、きっと釣り人のものだろう。


「何でもない。健人も一緒にお城作ろうよ」


 寝覚めに感じた違和感と同じ感覚が脳裏に走ったが、紗和はそれに知らん顔を決め込む。

 ザクザクと砂を掘り進める音に集中しながら、腕にまとわりついてくる湿った砂粒を、少しだけ不快に感じていた。

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