第4話

「シーザー暗号?」

 夏希なつきは弱々しく復唱した。しかし、うしおの反応は違った。

「シーザー暗号って、決まった文字数分アルファベットをずらすシンプルな方法だよね」 

 俺は頷く。 

 シーザー暗号は共和制ローマ末期、ガイウス・ユリウス・カエサルが使用した有名な暗号だ。カエサルの英語読みシーザーからとってシーザー暗号と名付けられたとされている。初歩的な部類だと俺が思ったのは、この方法が最もシンプルだからだ。 

 僅かに脈拍が上がるのを感じた。不慣れなことをしている。俺は軽く深呼吸をして落ち着かせ、ゆっくりと説明を続けた。

「俺もお前も最初に考えた文字をずらすやり方は、あながち間違いではなかったんだよ」 

 俺がそう言うと、夏希は得意げな顔をした。「威張るな」と、言いかけたすんでの所で飲み込む。

「で、肝心の何文字ずらしたのか、答えは三だ」 

 丸をつけた「3」の数字をシャーペンでトントンとつついた。そのまま、暗号文を復号する。

「b2はJ、Jの三文字前はG。b3はR、Rの三文字前はO・・・・・・」と、この作業の繰り返しである。

 一行目が完成した瞬間、夏希が驚嘆しながら、声を上げる。

「GOOD BYE!」

 俺と潮は慌てて人差し指を口元に当てた。静かにのジェスチャー。 

 ふぅ、と一息ついてから二行目に取り掛かる。なかなか骨が折れる。しかし、ちゃんと意味のある文字列になって安堵もしていた。頭の中で軽く試しただけだった為、全然間違っていたなんてことは充分に有り得たし、間違っていたら今頃恥ずかしさで・・・・・・と、考えるだけでも身の毛がよだつ。

「出来た」

「FIRST LOVE──」

「さようなら。初恋の人・・・・・・か」 

 静まり返る。夏希は感心を示し、潮はどこか儚げで、俺はというと・・・・・・煮え切らない、いや、複雑な心境だった。

「黛君の暗号は、ヒスイマオさんに宛てた恋文だった。それは転校間際に残した別れの言葉」

 夏希が質問する。

「どうして、こんな回りくどい方法で伝えたのでしょうか?」

「直接伝えることができなかったんだろ。別れも、告白も。俺は彼のことは知らないから妄想になってしまうが、彼は不器用な男だったんだろ。それが彼なりの精一杯だった」

「でも、もし解けなかったら? ただのイタズラ、出鱈目。それで片付けられてしまっては、やるせません」

「そうでもないさ」と、俺は淡々と答える。

「解けてもいいし、解けなくてもいい。例え意味不明で片付けられても良かったんだと、俺は思う。根拠は無いが」

「潮先輩、ヒスイマオさんはこの暗号解けたのでしょうか?」

「解けてたと思う」

 それなら、教えてもらえば良かったのでは? と俺は心の中で呟いた。しかし、中身が恋文と知れば、それが仲のいい友達であっても、吹聴するみたいで嫌だったのだろうと、半ば強引に納得した。

「日が傾きだしたな」

 窓に差し込む光が淡く色付き、夕暮れの迫りを知らせている。時計を確認すると間もなく五時になろうとしていた。

「帰りましょうか」と、夏希が椅子から立ち上がると「そうだな」と返した。

「待って」と、潮が引き止めた。

 やはりそうなるか。分かってはいたが。

「夏希、悪いが先に行っててくれ」

「え? あ、はい、わかりました」と、一礼して足早に去っていった。

 俺は気の進まなさに、暗澹あんたんたる思いだった。


 黄昏──街灯がつき始める。俺と夏希はバス停までの道のりを歩いていた。何故かこの時間から夜にかけての空気が一番美味しいと感じる。

「先輩、私に何か隠し事してませんか?」 

 げっ、こいつ鋭いな。まあ、当然か。あの場から無理やり席を外させたしな。

「悪いとは思ってるよ。潮に気を遣った結果だ。許してくれ」

 今日知り合ったばかりの後輩がいると、なかなか話しづらいこともあるだろう。それだけだ。

「ただ、正直俺はお前にも聞く権利ぐらいあると思う。騙すみたいで、俺は気に食わない」

 騙すみたいで気に食わないなどと、自分の言葉に虫唾が走る。

「騙す?」

「ただし、茶化さないこと。それが条件だ」

「わかりました」

「潮の思い出話なんだが、あれはな・・・・・・脚色された作り話だったんだ」

 ポカーンと、力が抜ける反応を示す。

「ただ、全部がそうという訳じゃない。少なからず実話を元にしてる部分もあるだろう。だが、ほとんどフィクション、虚構だ」

「ん? なんでですか? 作り話をして何に──」

「話さないぞ」

「ごめんなさい続けてください」 

 軽くため息をした。

「根拠だが、これは正直言いがかりに近い。ただの戯言」

「まず、話が出来過ぎている。記憶というのはいい加減だ。直近に起きたことなら兎も角、二、三年も前の出来事を随分と克明に説明してくれた」

 夏希は難色を示しつつ「でも補完された記憶を繋げて、美談っぽくなることは誰にでもあることじゃないですか?」と訊く。

 確かにその通りである。俺も最初は、そう思った。

「そうだな。次に、潮は初め俺にヒスイマオさんにまつわる話をしてくれた。だが聞いていくうちに、段々と黛君とその暗号の話になり、最後には、その暗号を解いて欲しいと持ちかけてきた」

「それは話しているうちに思い出して、自然と主題がずれてしまっただけでは?」

 そうそこだ。

「まあ普通はそうなんだが、潮はかなり順序立て話していたと思う。だから主題がズレることが変なんだ」

「そうですかねぇ」と、人差し指を顎に置いて、首を傾げている。

「暗号の話になるのは最初から決まっていた。しかし、あの暗号のヒントは思い出の中に隠れていた」

「ヒントをフェアに提示したかったって言いたいんです?」

 俺は数秒沈黙したあと、「うん」と静かに肯定した。

「俺は訝しんで、他に不思議なところがないか、探した。そして見つけた」

「というと?」

「ヒスイマオという名前は潮真衣うしおまいのアナグラムだ」

「えぇ!? んーーー、あれ? なりませんよ?」

 こいつ多分、日本語で試みたな。

「ローマ字」

「てへっ」

 俺はカバンからノートとシャーペンを取り出して、歩きながら記述する。書きにくいし、なんか行儀悪い。

「USHIOMAI、HISUIMAO・・・・・・あ、本当だ!」

「ヒスイマオという人物は潮の鏡写し。キャラクターだ」

「確かにこれは、有り得ますね。じゃあ暗号も──」

 バス停前に着き、暫く時間がある為俺たちはそのままベンチに座った。

「そう、暗号も潮が考えたものだ」

「──何故、そこまでして、話を作ったのでしょうか」

 俺は空を見上げようとした。しかし雨避け用のアルミ製シェルターが遮った。

「それを、訊けたら良かったんだけどな」

「・・・・・・」

「もしかしたら、潮は作家になりたいのかもしれないな」

「作家ですか?」

「漫画か小説か、何でもいいけど」

「先輩が言いたいこと、当ててあげましょうか?」

「やっぱ鋭いな、お前は」

「潮先輩の思い出は、実は美談ではなく苦いお話だった」

 少しギョッとした。正しく図星だったからだ。

「潮先輩は黛さんに恋していた。ヒスイマオは潮先輩とイコールです。不器用でミステリアスな黛さんの人柄に触れて、仲も深まって好きになった。でもフラれてしまった。潮先輩は、苦い経験を美談として上書きしたかった。創作はその結果です」

 俺は、自分が考えていた邪推が言葉としてつらつらと並べられ、それが今現実味を帯び始めている状況に、苦しくて視界が滲む。

 そして、俺は潮についた嘘を思い出して嘆息が洩れた。


 帰ろうとしたその時、潮に「待って」と呼び止められた時の事である。

 夏希を先に行かせ、俺は帰り支度を済ませながら、さてどうしたものかと考えあぐねていた。

「三紙君、本当は気づいているんでしょう?」

「何が?」 

 俺は目を合わせず言う。

「その・・・・・・」

 邪な推察、これは作り話の創作である、という考えは、今や確信へと変わった。

「お前の話、俺は好きだったぞ」

「やっぱり、気づいてたんだ」

 いや、俺は気づいてないフリ貫く。これは意地悪でもなんでもなく、俺なりの善意だ。これで平手打ちされても嫌われても、俺は曲げない。

 何故なら虚構は、虚ろな組み立てごとであるから美しいんだ。それを、嘘っぱちだ妄想だと言うのは、ナンセンスだ。

「だから気づく気づかないってなんだよ。俺は素敵な話を聞かせてくれてありがとうと言ってるんだ」

「ねぇ、三紙君。私の目を見て」

 声のトーンが、深海のように暗い。怖いくらいだ。 

 俺は言われた通り潮の目を見た。ダークブラウンの綺麗な瞳。

「・・・・・・嘘ね」

「──ッ!」

 そうか、ヒスイマオが潮とイコールであれば、彼女もまた、色を、嘘を見抜けるのか。

「なんでかなぁ、君、彼に雰囲気? 色? が似てるからかな? 私、まだ誰にもこの話したことないのに。なんだか喋りすぎちゃった」

 そう言いつつ、潮は両手を口元にあて「ふふっ」と笑った。彼女の目尻には少しばかり涙が浮かんでいた。

「何の話だよ。お前は俺を買い被ってる。何も知らないし何も気づいてない。ただ、お前の話は好きだった。それだけだ」

「うん、分かった。 じゃあ、その嘘に騙されてあげる」

 潮は涙を人差し指で拭い、もう一度笑って見せた。

 そんな彼女を一瞥し、その場を後にする。 

 潮は言っていた。俺と黛君の色は似ていると。スカイブルー、今にも消えて無くなってしまいそうなくらい透き通った青。淡く、ほろ苦い、そして切ない──そんな青。  彼女の見えている世界では俺はそう映っているらしい。

 しかし、俺がもし、自分の色を見ることができるのなら、それはきっと鈍色にびいろに違いない。

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鈍色と嘘 @apri_lfool

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