第61話

「寝てる・・・」


 みさ緒が水差しを取り換えようと、恭一朗の部屋に入ると恭一朗はソファーで横になって寝ていた。横顔には疲れの濃い影が浮かんでいる。こんなに無防備な様子の恭一朗を目にしたことはなかった。


(恭一朗さま…疲れて…)


 無理もない。銃弾を二発も浴びながら命が助かった、と言うことだけでも奇跡なのに、自宅療養になった途端に毎日毎日冴島商会の仕事をこなしている。社員が仕事の相談や報告でひっきりなしに面会に来る。いくら父親の琢磨が手助けしようとも、これでは身も心も休まる暇はない。



 いつも優しい笑顔でみさ緒を見守ってくれていた。

 何事も沈着冷静で、的確な判断を下し、落ち着いていて完璧で…それでいて周りへの思いやりを忘れない人…。


 そんな人が、我を忘れて…銃弾の盾になろうと前に飛び出した…みさ緒を守るために…。


 そして、みさ緒も…何とか恭一朗を助けたい、生きて、この窮地から脱して欲しい…そのことで必死だった。


 まさに、命ギリギリのあのとき…恭一朗もみさ緒もお互いに相手を救いたい、そのことしか頭になかった…そのことのみだった…。



(恭一朗さま…大事な方…みさ緒のすべて…)



 恭一朗にそっとブランケットを掛けると、みさ緒は恭一朗を起こさいように静かに部屋を出た。




 廊下の端からは、女中たちが何人か楽しそうに話をしている声が聞こえていた。ちょっとした息抜きの他愛たあいもないひとときのようだった。みさ緒のいる位置からはちょうど死角になっていて、彼女らからみさ緒は見えていない。


「ねぇ…やっぱり恭一朗様とみさ緒様はご結婚なさるのかしら」

「そうでしょ。お似合いですもの。美男美女!」

「ほんとに! 素敵なお二人…」

「恭一朗様がみさ緒様を見つめる目のお優しいこと…」

「そうそう…みさ緒様も恭一朗様をお慕いされているご様子なのが、もうっ」


 若い娘らしく、きゃぁっと弾んだ声が辺りに響くほど盛り上がっていた。もし女中頭に聞かれたら、「はしたない! お止めなさい!」と必ず叱られるに違いない。


 聞いているみさ緒の方が恥ずかしくなるような会話で、胸がドキドキする。屋敷の皆にもそんな風に思われているかと思わず顔がほてって熱くなった。


 みんなの噂話に過ぎないんだから、と思いながらも、心がふわふわする。みさ緒が幸せな気持ちで歩き出そうとしたとき、ふと誰かが冷静に口をはさむのが耳に入った。


「それは…無理じゃない。ご結婚だなんて…」

「え…どういうこと?」

「だって、お二人はご兄妹だから」

「え…違うわよ。従兄同士でしょ。従兄なら何の問題も…」

「それは、表向おもてむきの話…。みさ緒様は弥生様のお子でしょ? …知らない? 私、聞いたことがある。みさ緒様は、弥生様と旦那様との間のお子だって」

「えっ……」

「あ…でも、そういえば昔、そんなうわさ話があったって聞いた気がする…」

「…そうなの?」

「確か、弥生様はしばらく屋敷を離れていらっしゃった時期があって…二、三年して屋敷に再び戻ってらしたときには、乳飲ちのみ子のみさ緒様を連れてらしたって…」

「そうそう…旦那様が弥生様を別の場所に住まわせて、お子をもうけたんだってうわさ。だから、恭一朗様とみさ緒様のことは、そもそも、旦那様がお許しにならないと思う。お二人のご結婚なんて、どだい無理なんだから…。私たち、無責任にはやし立てちゃダメなんだからね」

「そうなんだ…」


 浮かれた様子だった場の空気が急にしぼんで、話をしていた女中たちは散っていった。


「・・え・」

(恭一朗さまと私が兄妹?・・・従兄…ではなく?)


 頭をガンと殴られたような気がした。


 さっきまでの幸せな気分はすっかり消え失せ、額にいやな汗がにじんできている。


(どういうこと・・・?)

 …だって、恭一朗さまは私に口づけを…。

 それに…私のことがいとおしい、と言って抱きしめてくださった…。

 あれは一体…。


(何だったのだろう・・・。何のつもりで・・・)


 呆然ぼうぜんとしたまま、みさ緒はその場を動けないでいた。


 どれくらいその場に立ちすくんでいただろう。


「みさ緒?」


 声を掛けられてハッとして顔をあげると、琢磨が立っていた。


「あ…伯父様…」

「どうした? 顔色が良くないが…。体の具合でも悪いのか? みさ緒が恭一朗の世話をしてくれるのは有り難いが、大概たいがいにしておいて、婆やや、他の者に任せなさい。みさ緒だって大変な目に合ったんだから、無理は禁物だよ」


「あ…いえ…あの…」


 頭の中がグルグルし始めて、琢磨の話す声がだんだん遠くに聞こえてくる。


 フミが亡くなった後、冴島家に引き取られて、恭一朗さまは従兄だと教えられ、いつしかお慕いするようになった人…。

 それが…みさ緒の祖父は欧州のさる国の国王だと知らされて、その祖父が彼の国で一緒に暮らすことを望んでいる、と言われたこと…。

 そして…今また、心からお慕いし愛する恭一朗さまが従兄ではなく兄妹かもしれないと…。


 短い間にあまりにも色々なことがおそって来て、もう、どうしたらいいのか、何が本当なのか、わからくなっていた…。


(私は…どうしたらいいの…? どうしたら…)



「みさ緒? どうした? みさ緒?」


 急に視界がまっ暗になって、みさ緒は崩れるように廊下に倒れてしまった。




「…お気が付かれましたか? みさ緒様、どうぞそのまま。今、旦那様を呼んで参りますから…」


 目をけると、婆やがそう言って部屋から出て行った。

 みさ緒は、いつの間にか自室のベッドに寝かされていた。



「みさ緒…大丈夫かい?」


 伯父様・・・優しい声。いつも温かくて…私をご心配くださって…。


 みさ緒は琢磨をじっと見上げた。


「伯父様…私は…私は母と伯父様の間の子、なのですか?」


「え? 今、何と…?」

 みさ緒の思いがけない言葉に琢磨は驚いていた。見れば、みさ緒は目に涙をためている。


「誰かに何かを言われたの?」


「…いえ…そうじゃ…ありません」


「そうか…みさ緒…みさ緒が心配しているようなことは何もない。だけど…弥生と私の間に本当は何があったのか…一度、みさ緒に聞いてもらった方がいいかもしれないね」



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