第58話

 ゴボっゴボコボっゴボっ・・・


 口の中に水がどっと流れ込んできた。


 苦しくて…息ができない。手は後ろ手に縛られたままで動かすこともままならなかった。山育ちのみさ緒は、川で水遊びをしたことすらない。当然、泳いだこともなかった。そのうえ、着物まで着ていては、もがけばもがくほど水の中に引き込まれていくようだった。


(これで、終わり…)

 みさ緒は自分が暗くて冷たい海の底にゆらり…と沈んでいくのを感じた。


(恭一朗さま…)

 意識が薄れていく中で、みさ緒の脳裏に浮かんでいたのは愛しい恭一朗の面影だった。




「みさ緒っ! 恭一朗っ!」

 琢磨が必死に呼ぶ声が暗い海に響いていた。


「若旦那! 恭一朗様っ!」

「みさ緒様っ!」

 奥村組の若い衆の怒鳴り声のような呼びかけがあたりにこだましている。


 すぐに何艘なんそうもの小舟が出され、松明たいまつで暗い海の上を照らして必死の捜索が行われた。

 風は少し収まってきたが、相変わらず雨は降り続いていた。暗い上に、海面が波立っていて、よく目をらさないと見逃してしまいそうだった。

「おい! 見逃すんじゃねぇぞ! しっかり探せ!」

 辰治の大声がひびいていた。


「冴島の旦那、奥村組の若い連中は命知らず揃いです。泳ぎも達者だ。何としてでもお二人をお助けしますから」

 琢磨の隣に立って勝五郎が言った。

「あぁ…。みさ緒を先に…せめて…みさ緒だけでも助けてやってくれ。やっと幸せに…これからだというのに…。みさ緒だけは何とか…頼む、勝五郎」

 琢磨は絞り出すように言った。


(…みさ緒様だけでも、とは…。どんなにか若旦那のことがご心配だろうに…)

 琢磨は、人の上に立つものとして、当たり前のように自分の息子のことは後回しにしている。だが、一人の親としての琢磨の胸中を察して勝五郎は胸が詰まった。


(旦那が…こういうお人だからこそ、俺たちは命懸けで働かせてもらうのさ…)



 小船の一艘から、どっと声が上がった。

 どうやら誰かが助かったらしい。





 目の前に白い天井が広がっていた。


(ここは…?)


 起き上がろうと少し体を動かすと、右肩の辺りにズキンと激しい痛みが走った。

 動くのは無理のようだ。呼吸を整えながら、改めて周りを見渡して、ここは病院なのだと悟った。消毒の匂いがしている。


 そろそろと首を動かしてみた。


(あ…恭一朗さ…ま…?)


 隣のベッドには恭一朗が寝かされていた。固く目をつむっている。

 少し呼吸も粗いようだ。


 強烈な消毒の匂いに混じってかすかに血の匂いがしている。


 生きているのだろうか…そう心配になるほど恭一朗の顔は青ざめていた。

 今まで見たことのない恭一朗の姿だった。


「みさ緒様っ…お気が付かれましたか?」

 きよが、みさ緒に気付いてベッドの傍に駆け寄ってきた。


「まぁまぁ…よくご無事で…ほんとに…本当によかった…」

 あとは言葉にならず、たもとを目に当てて涙をぬぐっている。


「恭一朗さまは…」

 自分でもびっくりするくらい、弱々しい声しか出ない。


 みさ緒の問いかけに、きよが答えた。

「大層なお怪我をなさっていらっしゃいますが、何とかお命は助かりましたんですよ。エドワード先生は名医でございますね」


「そうですか…よかった…」

 みさ緒のほっとした様子に、

「お二人が気が付かれた時に、必ずお互いのことをご心配なさるだろうからお二人は隣同士に寝かせておくがいい、と旦那様がおっしゃって…。その通りでございましたねぇ」

 きよが泣き笑いのような表情をしている。


「みさ緒様のことは、恭一朗さまがお助けになったらしゅうございますよ」

「え、恭一朗さまが…」

 そう言えば、もう意識を失いかけた中で誰かに帯をつかまれて、引っ張られたような気がする。あれは…恭一朗さまが助けてくれたときのことだったのだろうか…。


 そんなことを考えているうちに、みさ緒はいつの間にかまた眠ってしまっていた。



 どれくらい時間がっただろう…。


 ふと目がいて、隣の恭一朗のベッドの方を見ると、恭一朗がじっとみさ緒を見つめていた。


「みさ緒…よかった」

 かすれているが、恭一朗の声だ。みさ緒は、胸がいっぱいになった。


「恭一朗さまも…」

 それだけ言うのが精一杯で、あとはただ泣いた。


「みさ緒は…泣き虫だね」

 そう言われても、泣けてしまう。恭一朗が無事生きていることが心底嬉しかった。


「藤尾にらえられていた時は、あんなに気丈きじょうに振舞っていたのに…」

 少し、笑いを含んだ声で恭一朗が言った。


 あの時は、恭一朗さまを絶対に死なせてなるものか、とそれだけしか頭になかった。

「あのときは…泣くのを忘れていて…」

「そうか、忘れていたのか…」

 今度は本当に可笑しそうに恭一朗が笑った。そして、ちょっと苦しそうな顔をした。


「恭一朗さま、お身体にさわります。大層なお怪我だそうです」

 みさ緒が心配顔で、そっとたしなめた。


 恭一朗は目を閉じると

「怪我か…みさ緒が無事なら、それでいい。よかった…。私の二つ目の勲章だ」


「…恭一朗さま…また、みさ緒のために…」


 みさ緒の目から、大粒の涙が溢れた。恭一朗への想いで胸が締めつけられる。


 まだほんの小さかった頃・・・庭で遊んでいたみさ緒が大怪我をいかけた。それを、子供の恭一朗が身をていして救ってくれたことがあったのだ。

 恭一朗は、みさ緒の身代わりになって怪我をして血だらけになったのだったが、今も残るその傷痕を、恭一朗自身が「勲章だ」とずっと言っていたのだ。


(あぁ…恭一朗さまが、こんなにも愛おしい…)


 みさ緒は、心から愛する人に出会えたことが嬉しかった。


 でも…恭一朗さまは冴島商会を背負しょって立つ身。私のような凌辱けがされた者が、恭一朗さまの隣に居ていいわけない…。


 もうすぐ…恭一朗さまの怪我が治ったら…私は…恭一朗さまに、永遠のさようならをすることになるのだろうか…。


 みさ緒の心は、激しく揺れていた。

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