第57話

 男は、じっと恭一朗を見据えながら、みさ緒を引きずるようにして船首の突端とったんへと動いていた。

 みさ緒の首には銃が突き付けられたままだ。


 こんな事態になっても、銃を握る手が震えるでもなく、男は落ち着き払っている。

 みさ緒は小さく身震いした。

 この男は、恭一朗さまをこの世から消す、そのことだけはやり遂げるつもりなのだ。恭一朗をじっと見つめる男のビー玉のような目がそう言っている。さっきあれだけわめいていたのに、その目には何の感情のらぎもなく、ただ不気味に静まりかえっていた。


 恭一朗を守るために、どんな小さなことでも男の動きを見逃すまいと、みさ緒は息を詰めるようにして男を見ていた。



「おい! 恭一朗以外の奴らは下がれ! 勝手な真似するんじゃねぇぞ。女の命がどうなってもいいのか?」


 男が怒鳴った。


 下手に男を刺激しては、みさ緒の身に危険が及ぶ。

 辰治たちは、そろそろと後ろに下がった。


「支配人、恭一朗さんよ! 上着を脱げ! 物騒ぶっそうなものを身に着けてないとも限らねぇからな」


 男の言葉に素直に従いながら恭一朗が言った。

「さ、これでわかっただろう。私は何も持っていない。丸腰まるごしだ。藤尾、みさ緒を解放してやってくれ」


 男は愉快そうにくくっと笑うと

「…そう、さっきまでは、解放してやってもいいと思っていたんだがな。奥村組の連中が船に上がって来たのは、まずかったなぁ」


「わかった! 俺たちはここから離れる」

 辰治の声がして、船から去ろうとする男たちの足音がした。


「さて、と。邪魔者はいなくなった。あんたの大事な恭一朗はこれで終わりだ。だが・・ただ死んでもらうんじゃ芸がなさ過ぎてつまらねぇ。少し余興に付き合ってもらおうか」


 そう言うと、男はみさ緒の足の間に自分の足を差し入れた。折からの強風に、みさ緒の着物の裾が開いて大きくはためく。

 みさ緒の白い足が付け根近くまであらわになった。


「よぉ、惚れた女の無様ぶざま恰好かっこうはどうだ? 見ちゃいられねぇか」

 からかうようにそう言うと、今度は、みさ緒の首から銃を離して、みさ緒の体に沿って銃を動かし始めた。そして、今にもとうかというように、時折ときおり銃の動きを止めては、恭一朗をかし見ている。


めろ! 藤尾」


「騒ぎなさんな。びっくりして銃の引鉄ひきがねを引いちまうかもしれねぇぜ。俺は臆病おくびょうなんでね」

 男は笑いを含んだ声で恭一朗を挑発している。



「藤尾っ・・・」

 怒りで体が震える。藤尾が幼稚ようちなやり方で揺さぶりをかけているのはわかっているが、みさ緒を思うと我慢がならなかった。



「おい、あんたも恭一朗に大声で叫べよ。助けてってさ」

 今度はみさ緒に向かって男が言った。


「・・・・」


「ほら、言ってみろよ」

 男は銃をみさ緒の顔に近づけておどしながら、恭一朗に助けをえと何度もうながす。


「ほら」

男は銃身じゅうしんでみさ緒の頬を軽く叩いている。


「・・・恭一朗さま! みさ緒は大丈夫です! どうかご心配なさらないで!」


 いきなり男の手が飛んできて、みさ緒はしたたかに頬を殴られた。


「みさ緒っ」

 恭一朗が叫ぶ。


「ふざけんな」

 男の冷たい声が響いた。


 そう言われても、今のみさ緒には、恭一朗に助けて、と救いを求める気持ちはまるで無い。何とかして恭一朗を守りたい、その一心いっしんだった。


「ふん・・まぁいいや。お遊びはおしまいだ。恭一朗、あんたはもう終わりだ。・・最後にいいことを聞かせてやろうか」


 船の舳先へさきに向かってじりっと一歩下がると、男は続けた。

「・・俺は捕まらない。この船は、マレーシアに向かう。そして、この女も俺と一緒に連れて行く。そのあとおんなに客を取らせる店に売り飛ばすかどうするかは、この女次第だな。どうだ、大事な女の命が助かるってわかって安心しただろ?」

 男は、またもからかうように言うと、いよいよ銃口じゅうこうを恭一朗に向けた。


(恭一朗さま…)

 自分がたてになる…そう覚悟を決めていた。


 するとそのとき・・


 ガツッ!


 男のすぐ後ろで、何かがぶつかったような大きな音がした。

 男が思わず振り返る。

(今だっ)

 みさ緒は咄嗟とっさに男に思い切り体をぶつけた。手は後ろ手に縛られていて自由がきかないが、足は動かせる。不意をかれて、男が大きくよろめいた。

 

 恭一朗も男に向かって飛び込んできた。



 三人はひとかたまりになってもつれ合った。

「銃を放せっ」

 恭一朗が必死に男の銃を取り上げようとしていた。

 男の目はり上がり、鬼のような形相になっている。銃を取られまいと、逆に恭一朗を押さえつけにかかっていた。

 恭一朗と男が互いに相手を抑え込もうと激しくもみ合っている。



 混乱の中、一瞬のすきかれて銃口が恭一朗を向いた。

(恭一朗さま、危ないっ)

 みさ緒が男の銃と恭一朗の間に体をすべり込ませたのと同時に、銃声が一発…二発…。


「みさ緒っ」

 恭一朗の声がして、もつれるようにして三人ともに船から暗い海へ落ちて行った。

 

 奥村組の男たちが何か怒鳴りながら走って来る。


 最後の一瞬、みさ緒の目に男がニヤリと笑いながら海へと落ちて行くのが映った。そして、みさ緒自身も冷たい海に叩きつけられ呑みこまれていった。

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