第56話

 ダダダッと大きな足音がしたかと思うと、男が降りて来た。かなり焦っている様子だ。

 さっきまでの得意気な表情は消えて、怒っているように見える。


「くそっ・・・予定が狂った」

 腹立たしそうにそう言うと、男はみさ緒の足かせをいて、立つように命じた。みさ緒の手は相変わらず縛られたままだ。男に乱暴に引っ張られて船の甲板に出ると、船首の方へ連れていかれた。


 船上は風が強く吹いていた。みさ緒の着物のすそがばたばたと音を立ててはためいている。日暮れどきに差し掛かった空には黒い雲が垂れこめて、今にも雨が降り出しそうだ。辺りは一層薄暗くなっていた。


「ちきしょう」

 男が小さく呟くのが聞こえた。せわしなく辺りの様子をうかがっている。

 男の企みの中身は知らないが、どうやら想定外のことが起きているようだった。


 みさ緒も同じように周りを眺めてみると、港に停泊するこの船の周りに、ぼんやりと何人かの人影が見える。




 突然、男が大声で怒鳴った。

「いいか、よく聞け! 少しでもおかしな動きをしたらこの女がただじゃ済まないぞ! この女の命を助けたかったら、俺の言うことを聞け!」


「聞こえるか! 奥村勝五郎だ。お前の望みは何だ」

 下から大声で怒鳴り返してきたのは、勝五郎だった。


「あんたに用はない! 冴島恭一朗を呼んで来い!」

「だから用件を言ってみろ!」


 勝五郎の返答に、男はにべもなく言った。

「うるせぇ! ふざけたことを言ってんじゃねぇ! 早く冴島恭一朗をここへ連れて来い!」


 すると、恭一朗の声が聞こえた。

「私はここにいる! 冴島恭一朗だ。藤尾! みさ緒は関係ないはずだ。今すぐ、みさ緒をはなせ!」


(恭一朗さま…)

 みさ緒は胸が詰まった。この男の様子からして恭一朗に危害を加えようとしているのは明らかだった。


(危ないから来ないで。みさ緒は大丈夫ですから…)


 男は恭一朗の言葉に、くくっと笑うとみさ緒に向かって言った。

「あんたをはなせ、とさ。やっぱりあんたは極上ごくじょうえさだったな。あんたの解放を条件にすれば、どんなことでも言うことを聞きそうだ」


 男に少し余裕が出てきたようだった。


「よぉし、冴島支配人、船に上がって来い! 他の者はついて来るな! 冴島支配人だけだ!」


 少し小馬鹿にしたような調子で恭一朗に指図すると、今度はみさ緒に向かって言った。

「これから面白いことが始まる。あんたの大事な恭一朗がどうなるか楽しみに見てろ」


 そう言いながら男は、人質のみさ緒を、ぐぃっと自分の体の方に引っ張り寄せた。みさ緒が逃げ出さないようにして、恭一朗が上がって来るのに備えた。


 暗くてよくわからなかったが、近くで見るとふところの中に入れている男の右手には何かが握られている。


(…あ、鉄砲?)

 まさか、これで恭一朗さまをつつもり…。


「どうなるか楽しみにしていろ」という男の不穏ふおんな言葉に不安がつのっていたが、男が銃を持っているのを見て、不安が恐ろしい確信となった。


 至近距離で発砲されたりしたら、恭一朗は間違いなく死ぬ。みさ緒の動悸どうきが早くなった。


 甲板に立った恭一朗がそろそろと男に近付いて来た。男と5メートルほどの距離になったところで恭一朗が止まった。


「藤尾、お前の言うとおりに私一人で上がって来た。これでいいんだろう? みさ緒を放せ」


 すると、藤尾と呼ばれた男は、薄笑いを浮かべて言い放った。

「あんた、何か勘違いしてやしないか? だ俺に命令するつもりか? 何様のつもりだ?」


 さっきからぽつりぽつりとってきていた雨が、だんだん激しくなってきた。風もびゅーびゅーと音をたてて吹いている。



「藤尾、一体何が目的だ。はっきり言え」


 恭一朗が大声で言った。

 近い距離なのに、怒鳴るように声を出さないと聞こえないほど、雨風がひどくなってきた。大きな雨粒に叩きつけられて肌が痛い。


 みさ緒はハラハラしながら二人のやり取りを聞いていた。男がふところに隠した手には銃が握られている。それをいつ使うつもりか…男の手から目を離してはいけない、と思っていた。恭一朗が撃たれる直前に、自分が銃の前に立って壁にならなければ、と覚悟を決めていた。


「ふん。目的か…。冴島商会を混乱させて商売を乗っ取るつもりでいたのさ。書類はすべて用意してある。みさ緒の命と引き換えに署名させるつもりだった。だが、手筈てはずを整えてあんたに呼び出しをかける前に、居場所をぎつけられたってわけだ。ここが…なんでわかった」


「お前がやり過ぎたんだよ」


 いきなり辰治の声がした。いつの間にか恭一朗の背後はいごに辰治が立っていた。他にも数人、男を取り囲むように奥村組の人らしいのが立っている。激しい雨風とやみに乗じて、船に上がっていたのだ。


羽衣楼はごろもろうの親父が、奥村組に駆け《か》込んで来たのさ。このままじゃ人殺しの片棒をかつがされるってな」


尻腰しっこしのねぇ親父だ」

 男は吐き捨てるようにそう呟くと、辰治に向かって怒鳴った。


「おい!他の奴らが一歩でも近づくと女の命はないぞ!」

 男の右手が動いて銃を取り出すと、みさ緒の首に当てておどして見せた。



「辰治さん、奥村組の人も、藤尾にこれ以上近付かないでください。あいつのまとは私だ」

 恭一朗は、男にも聞こえるように大声で辰治とその仲間に言った。


 そして辰治を振り返ると言った。

「辰治さん、みさ緒は私が必ず助ける。だが…もし私が生きて戻れなかったら、みさ緒を守ってやってください。頼みます」


「若旦那…何をいったい…駄目です、そんな命を捨てるようなこと。冴島商会だって、若旦那がいないと…」

 辰治が驚いた顔をして恭一朗に言った。


「大丈夫ですよ。冴島商会は祥吾がいる。だが、みさ緒は…みさ緒は私が必ず助けます。みさ緒は…私の命です」



(若旦那…)

 辰治はそれ以上恭一朗を止める言葉が見つからなかった。

 

 恭一朗は覚悟を決めた顔でじっと男を見つめていた。


 恭一朗は、一歩、二歩と男に近付くと呼びかけた。

「藤尾、これ以上罪を重ねるな。父親だって悲しむ」


「親父は死んだ。一生かけて冴島商会に尽くした親父の人生が哀れで、可笑おかしくってならねぇ」


「・・・」


「世の中、不公平だ。あんたみたいに裕福な家に生まれた人間にゃわかんねぇだろ。生まれながらに、冴島商会みたいな大きな会社の跡継ぎに決まっていて、坊ちゃんだ、若旦那だって、ちやほやされてよぉ…。こちとら、毎日毎日汗水たらして働いて、雀の涙ほどの給金貰って、あんたらにありがとうございますって礼を言うんだ。一生、そうやって暮らしていくことになってんだよ。どこの家に生まれるかで人生が決まってるんなら、馬鹿馬鹿しくて真面目に働くのが嫌になるってもんだろ。いいか、俺だってあんたみたいな立場に生れてりゃ、あんた以上にやれるんだ。俺にはそれだけの才がある」


 男がべらべらとわめき立てるのを恭一朗は黙って聞いていた。


「ここらで人生を変えてやろうと勝負に出てみたが…もうどうでもいいや」


 急に投げ出すようなことを言ったと思ったら、男はみさ緒を連れて警戒しながら船首の突端に移動し始めた。


 もう目をあけていられないくらい激しい雨風の中で、男のビー玉のような目だけはじっと恭一朗を見据みすえていた。

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