第55話

「くくっ…」

 男が小さく笑った。湧き上がってくる喜びを押さえ切れない様だった。


 みさ緒が、もう一度尋ねた。

「あの…恭一朗さまはどこに? お怪我されたんじゃ…ないんですか?」


「支配人は、ここにはいませんよ。というか、あんたを助けるためにもうすぐここに来ることになるけど」

 そう言うと、可笑しくてしょうがないというように、また笑った。

 さっきまでの実直な様子とは言葉遣いも態度も豹変ひょうへんしていた。


「え…どういう…ことですか?」

 みさ緒の顔色が変わった。足元を冷たい風が撫でていく。


「わかんない? あんた、だまされたんだよ、俺に。あんたには、支配人をおびき出すためのえさになってもらう」


「おびき出すって…あなた一体…」

「まぁ…そのうちわかる。それにしても、支配人の名前を出しただけでこんなに易々やすやすと引っかかるとはね…。うまく行き過ぎて拍子抜けだぜ」


 ふふんと笑ってそう言うと、手際てぎわよくみさ緒の手足を縛り始めた。

猿轡さるぐつわまさないでおいてやる。あいつが来たら、盛大せいだいに助けてってわめくんだな」


 みさ緒は唇をんだ。


 支配人が怪我をしたと言って連れて来られたここは、港に停泊中の海外航路の船の中だった。




 さかのぼること一時間・・・


 みさ緒は冴島の屋敷の庭で、屋敷内に飾る花を選んでいた。


 そこへ、冴島商会の者だと名乗るこの男が、息を切らしてやって来たのだ。

「みさ緒様ですか? あぁよかった…。実は支配人が大怪我をされて…。港で輸出する荷の検分をされていたところ、何の拍子か荷崩れが起きまして…。支配人がしきりにみさ緒様の名前を呼んでおられるので、こうしてお迎えに参りました。さぁ、急いで」

 さぁさぁとかされて、考える暇もなく男の後を追った。

 恭一朗が大怪我をした、と聞かされてすっかり気が動転していた。


 大切に思う人の名を出されると、頭に血がのぼって冷静さを失ってしまう。その身を案じることが先に立って、相手の言うことを鵜吞うのみにしてしまう、という騙されるときの典型的なパターンだった。




 の悪いことに…琢磨は奥村組の勝五郎を訪ねて出かけており、婆やも屋敷の買い物があると言って使いに出て留守だった。屋敷には他の使用人もいたが、皆それぞれの持ち場にいて、みさ緒の近くには誰もいないという、言ってみれば、ぽっかりいた魔のときだった。

 みさ緒は、誰にも相談も伝言もできないまま、屋敷を飛び出して来てしまった。


 だが、みさ緒が、男の言うことをあっさり信用したのも無理はなかった。冴島商会では、社員の服装の規定があって、男の身なりはそれに沿ったものだったし、言葉遣いも丁寧で、まさしく今まで何度か言葉をわしたことのある冴島商会の社員そのものだったのだ。




 また迷惑をかけてしまう…。

 みさ緒の脳裏には、羽衣楼に拉致らちされた時の恐ろしい記憶がよみがえっていた。

 今度は、自分一人のことでは済まない。愛する恭一朗が呼び出されようとしていた。


 みさ緒を見る男のひんやりと冷たい目が不気味だった。何の光も宿っていないその目には、何が映っているのだろう…。

 自分の企みを気持ちよさげにしゃべる顔には狂気さえ漂っているように感じる。

 これから恐ろしいことが起きるに違いないと思うと、恭一朗をおびき出すための餌としてとらわれてしまった自分が心底しんそこ情けない。


(あぁ…恭一朗さま…ごめんなさい)

 自分のせいで恭一朗の身に何かあったら、生きてはいけない。

 自分はどうなってもいい。それよりも恭一朗のことが心配で胸が締め付けられるようだった。


 ここは船の中の積み荷置き場のようだ。


 荷物の一つに腰かけて、足をぶらぶらさせながら、男はさっきからみさ緒をじっと見ていた。


「あんたさぁ…西洋人の血が混じってんだろ。その綺麗な顔に…その体つきじゃ、羽衣楼の親父があんたに執着するのも無理ねぇか。いい歳した親父が大騒ぎして滑稽こっけいなもんだと思っていたが…」


 そう言うと、また、くくっと笑った。


 だが、笑ってはいても、羽衣楼と聞いてみさ緒の顔色が変わったのをちゃんと見ていたようだ。


「…気になるみたいだな。俺があの親父と関わったのは、あんたがいなくなった後でね。あんたを探すのに羽衣楼総出はごろもろうそうでで大騒ぎしている最中さ。力を貸すと言ってお近づきになったと言う訳だ。あんた…逃がしてくれた仲間がどうなったか知ってるか?」


「えっ…どうなったんですか…」


「あの親父にひどい目に合わされて、婆ぁの方は死んだ。もう一人の若い女は…」


 みさ緒が息を止めるようにして次の言葉を待っている。男は少し間をおいて、みさ緒をらすように、ゆっくりと言葉をいだ。


「外国へ売られるみたいだな…。あっちの国にも日本人の女を置いた宿やどがあるのさ。なぁに、することは日本にいるときと変わらねぇ。国が違うってだけだ」


「…ま、まだ外国へ送られてはいないんですね?」

 みさ緒が尋ねると、


「気になるか? よくは知らないが、これからだって話だ。今日か明日か明後日か…」

 ふんと鼻を鳴らして、男はからかうように言った。


「あんた…人の心配より、自分がどうなるか心配した方がいいんじゃないか?」

 みさ緒に向かって投げつけるようにそう言うと

「さて…そろそろいい頃合ころあいか」

 と、つぶやきながら出て行った。




(りよさん…)


 りよの手引きが無ければ、自分は到底、あの店から逃げることなどできなかった。


 今頃は、あの主にいいようにもてあそばれて、毎日何人もの男の相手をさせられていたことだろう。みさ緒ではない誰かとして生きていくしかなかったはずだ。


 りよが日本にさえいれば、何とか助ける手立てもあろうが外国へ送られてしまっては、どうしようもない…。



 絶望がまた一つ、増えた…。

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