第54話

 恭一朗は、二階のバルコニーから海を眺めていた。

 

 エドワード医師の言葉が胸をく。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・


「恭一朗さん…実は、次の国王に内定しておられる方がひそかに日本を訪問され、みさ緒様のご様子をご覧になられました。そして陛下に申し出られたのです。みさ緒様を妻に迎えたい、と。自分を後継者に指名してくれた陛下のために、その血をつないでいきたい、と」


「・・・陛下は、おりん様以外に自分の妻はいない、とおっしゃられて独身を貫かれておいでです。国においては血のつながりのある我が子がいない故に、かの御仁ごじんのご子息を次の国王に指名されることをご決断されました。人望のある大変ご立派なお方です。年齢は恭一朗さんより二歳ほど上のはずです」


「・・・今、みさ緒様の身の安全が保証されているのも、父親の指図で、どんな非道なことが日本で行われたのかをお知りになって大変憤たいへんいきどおられ、父親を強制的に隠居させたからです。そして、ご自身が家の当主の座にかれました。首魁しゅかいだった人物の引退によって反国王派は、あっけなく瓦解がかいしました」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 みさ緒には未だ聞かせていない話だった。




「あの…恭一朗さま…」

 みさ緒がバルコニーに出てきて声をかけた。


「うん? 何、どうしたの?」


「あの…さっきのお話…」

「うん」


「外国に行っておじい様とご一緒に住むとか…突然のことでどうしたらいいのか、わからなくて…」

「…そうだね。無理もない」


「あの…」

「・・・・・・」


「あの…恭一朗さまは、どうしたらいいとお思いですか? あの、もしよろしかったら、どうしたらいいか、恭一朗さまのお考えを…」


 恭一朗は、しばし沈黙した。


「…そうだね。私に言えることは、みさ緒が自分の気持ちのままに決めたらいい、ということかな」


「え…あの…私は恭一朗さまのお考えを聞きた…」


「みさ緒、私はみさ緒が自分で考えて決めたことなら…」


「尊重する。そう、賛成だよ」



「……はい」





 何にも言ってくださらなかった…。


 あの日交わした口づけは…

 想いが通じ合ったあかしだと思っていたのに…。


 このままどこにも行かないで、私の傍にいて欲しい…恭一朗さまが、たった一言ひとことそう言ってくださったら私は…。







 引き留めて欲しい、みさ緒の目が全力でそう訴えていたのはわかっていた。


 私とて、いとしいみさ緒を手放したくはない。

 みさ緒は私が一生をかけて愛する女性だ。


 行くな、と、私のそばにずっといて欲しい、とあやうく口から出そうになるのをぐっとこらえた…。


 みさ緒は…次期国王妃として迎え入れられるかもしれない身だ。

 そしてそれは、亡くなったみさ緒の家族の願いかもしれない…。


 自分の想いだけで、みさ緒を引き留めることなどできなかった。


「運命の相手、か…」

 恭一朗が胸の中でつぶやいた。



 風が強くなって沖合に白波が立っている。

 恭一朗はいつまでも海を見つめていた。






「やぁ、恭一朗さん」

「デニングさん、お久しぶりです」


 デニング兄弟商会のウィリアム・デニング氏が契約改定の件で冴島商会を訪れていた。

 クレア夫人の病気治療のため、夫妻はイギリスに帰国することになっていた。

「クレア様の具合はいかがですか?」

「落ち着いていますよ。ありがとう」


「それはよかった。今日は忙しい中、わざわざ来ていただいてありがとうございます」

「いや…。恭一朗さん、実は今度の契約更改の件で取引先と話をすると、先方が決まっておかしなことを言い出すので、直接お耳に入れたいと思って出向いたのです」


「おかしなこと、ですか」

「そうです。冴島商会はもうすぐ商売を縮小する、もしかしたら会社自体が無くなってしまうかもしれないという話を聞いたが、大丈夫なのか、というのです」


「えぇっ?」

 恭一朗がなかあきれて苦笑いすると、デニング氏も恭一朗に同調するようにうなずいた。


「馬鹿げているでしょう? でも、取引先の多くが口を揃えてそんなことを言うのです。変だと思って、そんな話をどこから聞いたのか尋ねると…」


 恭一朗が身を乗り出した。


「藤尾力丸という人物から聞いた、というのです。藤尾商店と名乗って、冴島商会の仕事を引き継ぐことになるから、と言ったそうです」


(藤尾力丸…)


 覚えがあった。

 父親と二代に渡って冴島商会につかえてくれたのだったが、力丸は実直な父親に似ず、一旗ひとはたげたい、成功者になりたいという野心が並外れて強い男だった。


 それがプラスに働いているときはいいのだが、手っ取り早く大金をつかみたいという欲望に負けて、会社の金を使って相場に手を出した。最初の内は、もうけたら会社に金を戻すことで、使い込みが発覚せずに済んでいた。だが、結局は、相場に失敗して会社の帳面に大穴をあけ、長年誠実に尽くしてくれた父親を道連れに、冴島商会を解雇された。


 社長の琢磨は、力丸の父親だけには、冴島商会に残って、今までと変わらず勤めて欲しいと何度も言ったのだったが、本人が固辞した。息子の不祥事に申し訳なさでいっぱいだったのだろうと想像がつく。



「藤尾が…そんなことを言い回っているのですか…」

「そのようです。ご存知の方でしたか?」

「かつての使用人です…」

 うめくように恭一朗が答えた。


「事情がおありのようですから、ざっくばらんに言いますが…冴島商会について随分と悪口を並べ立てたようですよ、その男。それで取引先も心配になったのでしょう」

 これでわかった、というようにデニング氏が言った。


 恭一朗は、力丸親子が店を去る時、平身低頭していた父親とは対照的に、力丸が大声で散々喚さんざんわめいていたのを思い出していた。


 みさ緒が冴島家に戻って来る二年ほど前のことだったと思う。


「恭一朗さん…。数か月前に冴島商会の倉庫で火事がありましたね。放火ではないか、という噂も耳にしました。飛躍しすぎるかもしれませんが…もしかしたら、その藤丸という男が…」

 恭一朗が、驚いたようにデニング氏の顔を見た。


「あ…いや、さしたる証拠も無しに人をおとしめるようなことを言いました。忘れてください」

 デニング氏が慌てて言いつくろった。


「いえ…。ご心配くださってありがとうございます」

 そう言いながら、実は恭一朗も同じような考えが浮かんでいた。


 それこそ軽々けいけいに決めつけるわけにはいかないが、フミの家が滅茶苦茶に壊されていたのも、みさ緒とフミがそこで暮らしていたことを知った上での嫌がらせ、と考えるとしっくりくる。


 倉庫の見回りをしていた奥村組が裏をかかれたことといい、内情に通じた者の仕業しわざとみるのが自然に思えた。


 それと・・・

 力丸が会社を去るときに、繰り返し口にしていたあの言葉がどうにも引っかかっていた…。


「世の中、不公平だ。見てろ、今に引きずり降ろして…」

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