第52話

 みさ緒は目の前の美しい光景に息を呑んだ。

 夕陽に照らされて海が薄赤く染まっている。


「きれいだろう」

 恭一朗の言葉にうなずいた。

「ほんとうに…」


 みさ緒は、恭一朗に誘われて二階のバルコニーから海を見ていた。


「子供の頃から、ここから見る海が大好きだったんだ。何かあっても、この場所に立って海を眺めていると忘れられた…」

 恭一朗が海を眺めながら、思い出を辿たどるように言った。


「何かって…嫌なこととか?」


「まぁ…いろいろだよ」

 微笑む恭一朗に、意外そうな顔をしてみさ緒が言った。


「恭一朗さまでも、嫌なこととか忘れたいこととかあったんですか?」


「みさ緒…僕だって子供だった時があるんだよ。みさ緒より十年早く生まれただけ。子供なりにいろいろあったし、今でも、時々ここに立って気持ちの整理をすることはある」

 そう言って笑った。


 恭一朗さまみたいな方でも…気持ちの整理をつけたいようなことが…。

 みさ緒は、いつも冷静で何事にも的確に指示を出しているように見える恭一朗の人間らしい一面を見た気がした。




「みさ緒…こっちへおいで」


 恭一朗が優しく笑いかけている。

 

 みさ緒は黙ってうつむいてしまった。

 ただ隣に座るように誘われているだけなのに、恥ずかしくて、すぐには恭一朗のそばに行けなかった。



「どうしたの? おいで」

 恭一朗が笑顔で重ねて呼んだ。


 みさ緒はおずおずと恭一朗の隣に座った。

 緊張して俯いたまま、恭一朗の方を向くことができないでいた。


(心臓が…こんなに大きな音で鳴って…)



 恭一朗とこんなに近くで接するのは、何も今日が初めてのことではない。


 今まで普通にできていたことが、最近はすんなりとできなくなっていた。


 恥ずかしさが先に立って、恭一朗がすぐそばにいると、まともに顔も見られない。


 恭一朗に好きだと言われたあの日から、どうしても意識してしまう。

 思い出すだけで顔が熱くなる出来事があったから…。


 今も、心臓の音が恭一朗に聞こえないかと心配だった。



 恥ずかしそうに隣に座ったみさ緒の髪を恭一朗の指が優しく撫でた。

 顔を赤くしてそっと恭一朗の顔を見るみさ緒が、愛おしくて仕方がない。



 ----みさ緒がずい分大人びた雰囲気になっただろ---


 恭一朗は琢磨の言葉を思い出していた。



 あの嵐の夜、自分を責めて苦しんでいるみさ緒が頼りなさげで、愛おしくて、熱い想いを押さえ切れずに、みさ緒を抱きしめて口づけした。


 そうせずにはいられなかった。


 不意打ちされて、みさ緒がどう思ったか、後になって心配になったが、あのときは無我夢中でそんなことは頭の中から消えていた。



 みさ緒の髪を撫でていた恭一朗の手が、すっと下がると、みさ緒を引き寄せた。

 

 みさ緒の顔をじっと見つめる。


「好きだよ、みさ緒…」


 そう言うとみさ緒を強く抱きしめた。


 恭一朗の腕の中で、みさ緒の体がかすかに震えたのを感じながら恭一朗は唇を重ねた。


 手加減しないと、みさ緒が戸惑う…と思いながら、恭一朗自身感情が高ぶって加減することなどできなかった。


 みさ緒にとっては多分官能的過ぎただろう。

 だが、ほんの一瞬、小さくいやいやするように身じろぎしただけで、黙って恭一朗にされるがままになっていた。




「だいじょうぶ?」

 抱きしめたまま尋ねる恭一朗に何も答えず、みさ緒は真っ赤になって恭一朗の胸に顔をうずめている。


 みさ緒の早鐘を打つような心臓の鼓動が伝わってくる。


 嫌だった?と聞く恭一朗に小さくかぶりを振るみさ緒がいじらしくてしょうがない。


 恭一朗は、もう一度強く抱きしめた。


「みさ緒…好きだよ、大切にする」

 そう言わずにはいられなかった。





 恭一朗もまた自分の心の変化を感じていた。


 みさ緒が可愛い、愛おしいと思う気持ちがどんどん大きくなって、理性が呑みこまれそうになっている。


 みさ緒に触れていたい気持ちが抑えられない自分に驚きさえ覚えていた。


 こうなることを予想していたわけではなかったが、バルコニーでよかった…とさえ思った。

 もし部屋の中だったらどうなっていたか、そんなことを心配する自分に呆れる。


(私らしくもない…)

 そう思いかけて、思わず胸の内で苦笑いした。


 みさ緒が行方不明になったと知ったときの、あの狂おしいほどの気持ち…みさ緒は自分のすべてだと自覚したのではなかったか…。


(自分の気持ちに従えば…こうなる、ということか…)



「みさ緒とはもう情を交わしたのか」

「みさ緒は不安なんだよ。いっそ抱いてやったらどうなんだ」

 琢磨の言葉がふと胸に浮かぶ。


「・・そういうことは急ぎたくないと思っています」


 琢磨に返した自分の言葉を思い出して、今度こそ自分に呆れていた。






(心臓が破裂しそうだった…)

 ほぉっとため息をつく。


 みさ緒は自分の部屋でベッドに横たわっていた。体がふわふわして自分の物じゃない気がする。


(恭一朗さまは…大人の男の人…)


 そう思い知らされた。


 さっき恭一朗と交わした口づけは、何が起きているかわからないほど刺激的で、そのままどこか別の世界に連れて行かれそうな気がした。


 あの嵐の夜の不意打ちのような口づけも、甘くて体が痺れるようだったのに…それをはるかに超えていた。




 あんなことを…されるがまま受け入れた自分を恭一朗はどう思っただろう…。


 恭一朗に抱きしめられて、好きだと囁かれてただただ嬉しかっただけなのに、はしたない娘だ、やっぱり汚れた娘は大胆だ、そんな風に思わなかっただろうかと、そんな心配もむくむくと湧き上がってくる。


(でも…)

 大切にするよ、と、優しく背中を撫でてくれた恭一朗を今は信じたい、信じていたいと思った。


「恭一朗さま…」

 そっと名前を呼んで、目を閉じた。

 しばらくはこの夢心地にひたっていたい…。







「みさ緒の健康状態はいいようです。何より表情が明るくなった。

 彼女が落ち着いているのは恭一朗さんのおかげですね」


 エドワード医師がそう言って、琢磨と恭一朗に笑いかけた。


「でもまだ、完全に元通りのみさ緒になったわけではないのでしょう?」

 恭一朗がそう尋ねると


「そうですね…心の傷は間違いなくあるでしょう。外側からはわからない。どれくらい深いか、どれくらい大きいか…みさ緒だけが知っていることです。もしかしたら、みさ緒自身もはっきりとはわからないのかもしれません。自分にどう影響するのか…」


 そうですか、わかりましたと言って、ではまた明日よろしくと挨拶しかける琢磨に、エドワード医師が言った。


「冴島さん。陛下におかれましては、この度、譲位をご決断されました。譲位後は、みさ緒様をお引き取りになり、ご一緒に暮らされることを望んでおられます。みさ緒様に起きた不幸な出来事もすべてご存知で、大変お心を痛めていらっしゃいます」


「えっ…」

 二人は言葉を失った。



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