第51話

「伯父様、おはようございます」

「おはよう、みさ緒。いい朝だね」

「ええ、本当に…」

 にっこりと微笑むと、みさ緒は庭へと出て行った。

 屋敷に飾る花を切るのだという。


 コーヒーを持つ手を止めて、琢磨はじっとみさ緒の後姿を見送っていた。


「父さん、おはようございます。 ん? 何を見ているんです? あ、みさ緒ですか…。なにか?」


「うん…。いや…」

 琢磨はそれ以上何も言わず、黙ってコーヒーを口に運んだ。





「珍しいですね。父さんが私を誘うなんて…」

「うん…。たまにはいいだろう? ゆっくり話がしたくてね」


 夜、二人は琢磨の部屋で向き合っていた。



「婆や、もういいよ。後は自分たちでやるから」

 琢磨はテーブルに酒肴を並べている婆やに声をかけると

「みさ緒の様子はどうかな?」

 と尋ねた。


「落ち着いておられます。以前のようにうなされることもないようにお見受けしますし、頭痛を起こされることも無くなりました。ですが…」

「うん?」

「口数が少なくなってしまわれたように感じます。いえ、一時的なことかもしれないんでございますが…。お体はお元気のようでございますから、考えすぎかもしれません」


 そうか、これからもみさ緒を頼むと琢磨に言われて婆やは下がって行った。


「みさ緒は、りよのことが心配なんだろう?」

 琢磨が恭一朗に言った。


 みさ緒は、記憶を取り戻した後、どうやって羽衣楼から逃げ出すことができたか、恭一朗に詳しく話をしていた。


「はい。みさ緒とりよは、逃げ出す途中に羽衣楼のり手に見つかってしまったそうです。ですが、どういうわけか見逃してくれたそうで…。その遣り手が横浜港で水死体で見つかったことで、なおさら、みさ緒はりよのことを心配しています」


 そうだろうな・・、と言ったきり琢磨は黙っている。勝五郎も調べてくれているのだが、りよの消息はつかめていなかった。



 しん・・となって場の空気が重くなりかけたとき、唐突に琢磨が言い出した。


「…恭一朗…みさ緒とは、もう、情をわしたのか?」


「えっ・・・」

 いきなり聞かれて恭一朗がむせたのを琢磨は面白そうに見ている。


「どうなんだ?」


「聞きにくいことを、まぁはっきりと・・・」

 恭一朗が苦笑いしている。


「ま、親子だからな・・・。こういうときしか聞けないだろ?」

 琢磨は、あくまでもはっきりさせたいらしい。恭一朗の言葉を待っていた。


「まだ…ですよ。私の気持ちは伝えましたが…」


「そうか…。最近、みさ緒の様子が変わっただろ? ずい分大人びた雰囲気になった。今朝も見惚みとれて思わず後姿を追ってしまったよ。だから、あるいは…と思ったまでだ」


「そうですか…。まぁ…その…伝えただけ…でもなかったですが…」


「お前でも、照れるんだな」

 琢磨が笑った。


 恭一郎は琢磨の軽口かるくちには、それ以上取り合わずに続けた。


「…みさ緒は苦しんでいるんですよ、父さん。私は自分の気持ちを伝えて、自惚うぬぼれでなく、みさ緒も私を想ってくれていると確信しました。だからこそ、みさ緒は羽衣楼はごろもろうで自分の身の上に起きたことは、自分が招いてしまったことだ、と思い詰めて…」


「そうか…かわいそうに…」


「何がどうであろうと、みさ緒への気持ちは変わらない、というつもりで、私を信じるように、とみさ緒には言いましたが、どれだけ伝わっているか…」


「そうか…。恭一朗…乱暴に聞こえるかもしれんが…いっそ、みさ緒を抱いたらどうなんだ?」


「え?」

 恭一朗は驚いて琢磨の顔をまじまじと見ている。

 琢磨自身も認めるように、あまりにも乱暴な言い草に聞こえた。


「いや…だからさ。想い合っている男と女だ。自然と行きつくところはそこだろう? 何もおかしなことじゃない」


「そう…かもしれませんが…」

 恭一朗は苦笑いすると、

「父さん…若い頃は、奥村組の勝五郎と二人して競うように浮名うきなを流した、と聞いていますよ」


 琢磨は、いも甘いも嚙分かみわけた玄人くろうとねえさん方との話とは違うよ、と断ったうえで続けた。


「みさ緒の気持ちを考えると、だよ。羽衣楼での出来事が原因でお前に去られるんじゃないかと、みさ緒は不安に思っているに違いない。気持ちはわかる。言葉だけじゃなく、態度でしめしてやることも必要じゃないのか、と思うわけだ」


「…父さん、私はみさ緒を妻にしたいと思っています、みさ緒さえよければ。ですから、どちらが先になっても、私は構わないのですが…」

 恭一朗は屈託した表情で黙った。


「どうした?」


「みさ緒が、その…触れられることに恐怖心を持っているのではないかと心配なんですよ。だから…急ぎたくはないと思っています。それに…」


「それに?」


「みさ緒自身が、ここで暮らすことを選ばない可能性もあるのではないか、と…」

 琢磨が驚いた顔をしている。


「いえ、別に何かあったわけじゃありません。もしも、の話です」


 琢磨は、恭一朗が言おうとしていることを察した。


「みさ緒の母の弥生が亡くなって十五年…だ。その間、幸いにもみさ緒が襲われることは無かった。だが、かと言って、今さら迎えなどとは到底考えられないことだと思うが…」


「私もそう思います。ですが…みさ緒が、何の迷いもなく自分の幸せを自分で選びとれるようにしておいてやりたい、と思うのですよ」


 みさ緒にとって一番の幸せは何なのか、今このときになって改めて考えてしまうのだ、と恭一朗が言った。


「今は未だ、みさ緒には手を触れないでおく方が、みさ緒のためかもしれない、ということか…」

 難しい話だな、と琢磨がつぶやいた。







「恭一朗さま!」

 みさ緒の声に、恭一朗は、ちらと振り返ってみさ緒の方を見た。

 だが、すぐに目線を戻すと、みさ緒に背を向けて歩いて行こうとしている。


「恭一朗さま、待ってください・・。恭一朗さま」

 なおも呼びかけるみさ緒に、もう振り返ることもせず、恭一朗の背中はどんどん遠ざかっていく。



「恭一朗さま…待って」

 追いかけたいのに、今度はどうしてもみさ緒の足が動かない。


 恭一朗がなぜ立ち止まらないのか、なぜみさ緒の方を見ようともしないのか…みさ緒にはその理由がわかる気がしていた。


 遠ざかっていく恭一朗の背中が、みさ緒を拒んでいるように見えた。



 恭一朗さまに近付いてはいけない。

 恭一朗さまの隣にいるべき人は私じゃない。


 そう自分に言い聞かせても、どうしようもなく恭一朗が恋しい。


 みさ緒の胸は張り裂けそうだった…。


 小さくなっていく恭一朗の後姿に、みさ緒は必死に手をのばそうとしていた。

 決して届きはしないのに…。






 はッ…

(あ…また…夢…)


 胸が苦しい…。

 みさ緒はベッドに起き上がると、大きく息をついた。

 


 夢の中の恭一朗は、いつも決まってみさ緒から去って行く…。



 ----みさ緒、好きだよ。私を信じて欲しい----


 嵐の夜、恭一朗がささやいてくれた言葉が心に浮かんだ。


(…恭一朗さま…私は…もう…)

 恭一朗さまが知っているみさ緒とは違う…。


 みさ緒は手で顔を覆うと、うなだれたままじっと動かずに座っていた。


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