第50話

(私は…私は…あの坊主頭おとこもてあそばれて…)


 あの男の餌食えじきになろうとしているとき、どれほど恭一朗を思ったか…この絶望から救い出して欲しいとどれだけ願ったか…。


 でも…かなわなかった…。


 あの場所でどんなことをされたかを…恭一朗さまに知られたら、きっとさげすまれるに違いない…


 どんな奇跡が起きようと、もう決して恭一朗さまと結ばれることはない…。

 夢見ることさえ…許されない…きっと。


 みさ緒の目からとめどなく涙があふれた。


 すべては、自分がうかうかと、あの坊主頭おとこの策略に引っかかってしまったのが悪いのだ、そう思うと余計に苦しかった。



 これなら…何も思い出さないまま、知らない土地で、冴島みさ緒ではない別の誰かとして生きた方がよかった…。


(私は……)

 ここで「冴島みさ緒」として、生きている価値があるのだろうか…

 こんな私が…



 暗い部屋にみさ緒のむせび泣く声が悲しく響いていた。



「坊ちゃん…みさ緒様をお救いできるのは…坊ちゃんだけでございます。どうかおそばに…」


 何かを察したらしい婆やが、もらい泣きしながらそう言った。

 そして、旦那様にお知らせしてきます、と階下へ降りて行った。



「…みさ緒」

 恭一朗は、部屋に入ると、ろうそくの灯りを吹き消した。

 薄ぼんやりと明るかった部屋は、また漆黒しっこくの闇に包まれた。


 激しい雨風が窓ガラスを揺らしている。

 みさ緒の心中しんちゅううつすかのように、外はすさまじい嵐になっていた。



「…みさ緒、これでもう何も見えない。だから…私の話を聞いて欲しい」


 返事はなく、みさ緒の泣き声だけが聞こえてくる。


 恭一朗は構わず続けた。


「みさ緒…ありがとう。戻って来てくれて、本当によかった…。みさ緒が生きて帰って来た…それだけで私がどれほど嬉しかったか…みさ緒には想像もつかないだろう…?

 みさ緒が行方不明になったと知った時の私がどんな気持ちだったか…。もう二度と…みさ緒に会えないのではないかと、私は…私は…」


 いつも冷静な恭一朗が、言葉を続けられないでいた。

 あの時のことを思い出して感情の高ぶりを押さえられなかった。


「…みさ緒…すべては私のせいだ。みさ緒をそれほど泣かせているのは…この私だ。もっとみさ緒に気を配っているべきだった。本当にすまない。

 もし…みさ緒を永遠に失うことになっていたら、と思うと…今でも気が狂いそうになる…。私にとって、みさ緒がどれほど大切な存在か改めて思い知らされたんだよ…。みさ緒…私は、みさ緒のことが…」


「おっしゃらないで! 恭一朗さま…もうそれ以上おっしゃらないでくださ…い」


 途中から、しん、と恭一朗の話を聞いていたらしいみさ緒が、恭一朗の言葉をさえぎった。


「…みさ緒」


「私は…私は恭一朗さまにそんな風に言っていただく価値なんて無い…。だから…もう…止めて…」

 優しい言葉を聞くのがつらい、と言ってみさ緒は泣いた。


「みさ緒…」

 どう言葉をかければいいのか…。

 みさ緒が羽衣楼はごろもろうでどんなひどい目にあったか、想像がつく。

 それだけに迂闊うかつな言葉を発してみさ緒を傷つけてしまうのが怖かった。


 恭一朗が言葉に迷っているうちに、みさ緒が恭一朗を突き飛ばして部屋から飛び出して行った。


「みさ緒! 待って! どこへ行く! みさ緒!」





 みさ緒は転んで地面に倒れ込むと、そのまま泣き崩れた。

 激しい雨がみさ緒の体に容赦なく打ち付ける。


(恭一朗さま…恭一郎さま……恭一郎さま…)


 みさ緒は心の中で恭一朗の名を叫んだ。

 恭一朗への想いでいっぱいになっているのが切なかった。


(好きです…恭一朗さま…その熱い腕で抱取だきとって欲しいと、どれだけ…)


 でもそれは、見てはいけない夢だとわかっていた。


(…時間を戻せたら…あの男に連れ去られる前に…戻れたら…)


 できるはずのないことを願う自分が悲しかった。


 振り絞るような泣き声もかき消すほどの激しい雨風が、ひたすら降り続いていた。



「みさ緒! みさ緒!」

 暗闇の中、激しい風雨にさらされながら恭一朗がみさ緒を捜す声が、風に飛ばされて途切れ途切れに響いてくる。


「みさ緒…」

 庭の隅で泣きながらうずくまっているみさ緒を見つけて、恭一朗が駆け寄った。


 

「みさ緒…みさ緒…」

 愛おしさがこみ上げて、恭一朗はみさ緒を強く抱きしめた。


 これを激情…というのだろうか…。

 みさ緒への想いが、今は燃えさかる炎となってもう抑えられなかった。



「離し…て…。恭一朗さま…どうか…離してください…。お願い…。私は…もう…恭一朗さまの知っているみさ緒じゃない…」

 みさ緒が泣きながら訴えた。体が震えている。


「…嫌だ…離さない。絶対にみさ緒を離さない」


 みさ緒は激しく首を横に振った。


「駄目です。離して…。私なんか、いっそこのまま雨と一緒に流れて消えてしまった方がいい…」


「みさ緒…そんな悲しいことを…」


「恭一朗さま…けがれのない私だったら、どんなによかったか…。

 私…私はあの男に…」



 恭一朗の唇が、みさ緒の口をふさいだ。


(あ……)


 激しい雨も風も、樹木がざわめく音さえも、みさ緒の世界からすべて消えた。

激しく鳴る心臓の音だけが聞こえていた。


 ほんの数秒間が、まるで時が止まってしまったように感じられた。




 やがて唇を離すと、恭一朗がみさ緒を見つめて言った。


「みさ緒……何も言わなくていい…。いいんだ。私にとっては、今、目の前にいるみさ緒がすべてだ。みさ緒…好きだよ。私を信じて欲しい…」



 恭一朗は再び強く抱きしめると、唇を重ねた。


(あ……恭一朗さま…)


 甘くしびれるような感覚に、みさ緒は眩暈めまいがした。






「婆や!」

 泥だらけのみさ緒を抱きかかえたまま、恭一朗は大声で呼んだ。


「坊ちゃん! みさ緒様! …何と…」

 玄関に立っているずぶ濡れの二人の姿に、婆やが驚いている。


 みさ緒を風呂に、と言いつけて自分も浴室に向かおうとしていると、琢磨が廊下に立っていた。


「父さん…みさ緒が記憶を…」

「そうか…よかった…」


 はい、とうなずいて立ち去ろうとする恭一朗の背に琢磨が声をかけた。


 「恭一朗…お前は、愛しい女の手を決して離すなよ」


 離しません、と答えながら恭一朗は琢磨の表情がいつもと違うことに気付いていた。

 息子への思いがこもっているのに、どこか悲しい色を帯びていた。






 ベッドに入っても、みさ緒は全然眠れなかった。


 愛する人にれられると、こんな気持ちになるのだと初めて知った。


 恭一朗に触れられた唇が熱い…。


 抱きしめられたときの腕の感触も、まるでたった今のことのようにはっきりと覚えている。


 思い出すだけで、体が熱くなってきた…。


 …離さない…って…。

 みさ緒は、恭一朗の言葉を何度も思い返していた。



(でも…私に起きたことは消えてなくなりはしない…)


 いつか、恭一朗が後悔するのではないか…恭一朗に愛想をつかされるのではないか…

 そんな不安ばかりが大きくなる。


 想い続けた恭一朗と気持ちが通じ合ったのは…ほんの一瞬の幻に終わるのかも知れない…。


 恭一朗との関係が、あっけなく壊れるかもしれない予感に、みさ緒は暗い目をして窓の外を見ていた。


 嵐は止みそうもない。

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