第49話

「ねぇ、みさ緒・・聞いてる?」


「あ…ごめんなさい、巴様。えと…何でしたっけ?」


「だからね、元町に今度出来た新しいお店のお菓子がとても評判だから、今度買って来るわって言いましたの」


「あ、そうでした。楽しみです」

 

 そういう言葉ほどには、みさ緒の表情は明るくない。

 屈託くったくした様子が見えるのが気にかかって、巴が尋ねた。


「みさ緒…どうしたの? 何か困りごと?」

「あ…いえ…なんでもない…です」

「…もしよかったら、話してみない?」


 巴に優しく促されて、みさ緒は先日の横浜港のでき事を訴えた。


「あの方…えっと…恭一朗さま…でしたっけ? あの方とは、さほど親しくしているわけでもないのに、私…はしたない振る舞いをしてしまって…。何であんなことを…と思うと自分が情けなくて…」


「みさ緒…」


 みさ緒が恭一朗を「あの方」と呼ぶのを聞くのは、とても辛い…。

 そんなみさ緒を間近で見ている恭一朗の胸中はどんなだろう…。

 二人は、あんなに想い合っていたのに…と思うと、巴は切なかった。



 そんなことを考えていたせいだろう…あっと思ったときには、もう口から言葉が出てしまっていた。


「みさ緒と恭兄様は…とても仲が良かったのよ」

「え?…」

 

「みさ緒は甘いものが好きで、甘いお菓子を食べると機嫌が良くなるっていうのも、恭兄様から教わったの」

「え? あ…そう…なんですか…」

 

 巴に合わせるように返事をしつつも、みさ緒はに落ちない顔をしている。


 それはそうだろう…。今のみさ緒にそんなことを言っても信じられるわけがない。中途半端な形でみさ緒を刺激することになって、巴は焦った。


「あ、そ、そうだわ…もしかしたら、みさ緒は道に迷ったときに転んだんじゃない? それで忘れてしまったのかも…。きっと、そうよ。頭に大きなたんこぶ、できてなかった?」

 取りつくろうつもりで、慌てて言葉をつないでみたものの、うまくごまかせなかった…。


(私としたことが…)

巴は、自分の失態に唇を噛んだ。





他愛もない話をしているうちに、いつの間にか時間が経っていたようだ。

婆やが巴を呼びに来た。

運転手が、天気が大荒れにならないうちにお屋敷に戻りましょう、と言っているという。


雨脚が強くなってきているようだ。

窓の外はすでに薄暗く、ゴロゴロと雷が鳴る音も聞こえている。


「…近頃は雨ばかりね…嫌な季節だこと。じゃあ、みさ緒、ごきげんよう。またね」

 そう言うと、巴は帰って行った。




 みさ緒は、巴が帰った後の部屋で一人ぼんやりとしていた。

 婆やが新しくれてくれた紅茶はテーブルに置かれたままになっている。


 巴の言葉が頭から離れなかった。


 …あの方、いえ、恭一朗さまと仲が良かったなんて…信じられない…


(どうしてだか…)

 恭一朗さまに真っ直ぐ見つめられるのが…怖い…

        …なぜか…逃げ出したい気持ちになってしまうのに…


 みさ緒は、巴から聞かされた思いがけない話にとらわれて、出口を見つけられないまま迷路を彷徨さまよっているようだった。





 外は、いよいよ大荒れに荒れてきた。

 

 雨粒が風と一体になって窓ガラスを打ちつけ、どんどん激しさを増していた。

 

 庭の樹木は強い風に大きく揺さぶられて、夜の闇の中で黒々とした影になり右に左に揺れながら、ざわざわと音を立てている。


 遠くに聞こえていた雷鳴も、今はかなり近い。





 荒れた空模様と呼応するように…みさ緒の心にどんよりとした灰色の雲が広がってきた。


 窓外の激しい風雨の音が、みさ緒の不安を一層掻いっそうかき立てる。


 言いようのない不安が黒い大きな影となって、みさ緒を包み込もうとしていた。






 閃光せんこうが走ったと思った次の瞬間、

 まるで天が裂けたかと思うほどの光と、耳をつんざく大きな音がして窓ガラスが揺れた。


 屋敷の中の灯という灯は消え、一瞬にして闇に落ちた。


 落雷の激しい音に驚いて、みさ緒は床にしゃがみ込んでしまった。


 あまりに大きな音に、耳がボワーンっとなっている。

 心臓の鼓動も速い。


 外は依然として風が吹きすさび、雨が叩きつける音がしていた。


 みさ緒は真っ暗闇の中で、宙に浮いてしまったような、どこにいるのかもわからないような感覚に陥っていた。



「…みさ緒様…大丈夫ですか? 灯りをお持ちしました」


 婆やが、ろうそくを手に部屋の扉を開けた。



 その瞬間…

 みさ緒の目に映っていたのは…婆やではなかった


 ・・・まばゆい灯りを背にして入り口に立つ人影。

      その人影が、ずかずかと近付いて来る・・・


<…婆さん、この娘だ。ちょっと見てくれ…>

     <うん…。いい体だ。これは男をぞくぞくさせる体だよ>

          <親方が随分とご執心だからな…>  

  <逃げようなんて考えるんじゃないぜ…>

     <親方が戻って来たからね…お目通りの準備…>

 <おや。こんな大きな傷…>

      <ここでは、こんな傷さえ同情を引く…>

         <おぅ、あの日以来だな…>

    <この部屋で大声出しても、店の方には聞こえない…>

 <俺一人に抱かれている方が女冥利ってもんだ…>

     <なんだ、泣いているのか…ばかばかしい…>

    <みさ緒、みさ緒…急いで。ここを出るの…>


 みさ緒の頭の中に…

 誰彼の様々な声が滝のように一気に流れ込んで来た…

 と同時に、

 いくつもの情景が、次々と浮かび上がってくる…


「あっ…あっ…」

 声にならない声を上げると、

 みさ緒は耳をふさいで、床の上に突っ伏してしまった。

 体が震える。息をするのも苦しかった。


「みさ緒様? みさ緒様、大丈夫ですか?」

 みさ緒の様子に驚いた婆やが、暗がりの中をそろそろと近付いた。


 ろうそくの灯りの下でも、みさ緒の顔が青ざめているのがわかる。



「婆や…みさ緒は…」

 恭一朗が心配して部屋に入ってきた途端、


「いやぁっ・・・」

 みさ緒が叫んだ。


「みさ緒…どうしたの…大丈夫か?」


 恭一朗は、みさ緒が激しく取り乱していることに驚いた。

 今の落雷で怖い思いをしたのか…そう思って近付こうとした。


 すると…みさ緒が悲しい声を出した。


「恭一朗さま…来ないで…ください。私を…みさ緒を見ないで…お願い…」


「みさ緒…どうした? 何か…あったの?」


「…来ないで…私を見ないで…」


 いつものみさ緒と明らかに様子が違う。


(みさ緒……もしかして記憶が…)


「みさ緒…落ち着いて…大丈夫だから。みさ緒が困るなら、私は近づかない。だから…」



(思い出した…私は…私は…道に迷ったんじゃなかった…

          逃げて来た…あの男から…)


 みさ緒の絞り出すような悲痛な泣き声が、暗い部屋に響いた。


 廊下に出てその声をじっと聞いている恭一朗もまた、泣いていた。

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