第47話
恭一朗はみさ緒の寝顔をじっと見つめていた。
静かな部屋に、いつの間にか降り出した雨の音だけが響いている。
横浜港から屋敷に戻ってからも、みさ緒の動揺はなかなか収まらなかったが、ようやく落ち着いて眠りについたところだ。
婆やは、恭一朗がみさ緒の様子を見に来ると、気を
部屋の中は、恭一朗とみさ緒の二人きりだ。
恭一朗が心のままにみさ緒の
(みさ緒は……)
記憶を失ってから、泣いてばかりだ…
以前のような無邪気な明るい笑顔は、すっかり影をひそめ、いつも不安そうな目をしている。
可哀そうに…そう思いながら、恭一朗は横浜港でのみさ緒の様子を思い返していた。
水死した女のことを、知っている人だと言ったことも、着物の柄と女の入れぼくろに見覚えがあると言ったことも、いつの間にか勝手に自分の口が喋っていたことで、何がどうした、と詳しく聞かれても何もわからないのだと言ってみさ緒は泣いた。
みさ緒自身、かなり混乱していた。
エドワード医師の説明だと、衝撃的な場に
(あのとき…)
みさ緒は、…恭一朗さま、怖い…と言って恭一朗の腕にすがりついて来た。
思いがけないことだった。
自分の左腕には、みさ緒の手の感触が今もはっきりと残っている。
そして…あぁ、そういうことか…と恭一朗は思った。
あの一瞬…
(みさ緒は、記憶を失くす前のみさ緒に戻ったのだ…)
私の心は…それほどまでに、みさ緒を求めているのだ、と思った。
みさ緒…
恭一朗の手が伸びて、眠っているみさ緒の
みさ緒…失った記憶が戻って来たら…私のことを思い出してくれるのか?
だが…思い出すことは、みさ緒が経験したであろう羽衣楼での辛い出来事を、もう一度頭の中で繰り返すことだ。
昔のみさ緒に戻って欲しい、そして、みさ緒をどれほど
そのときは…私自身も、みさ緒への想いの深さを試されるときだ。
…決してみさ緒をひとりで苦しませたりはしない…恭一朗は改めて自分に誓っていた。
「う、う…ん」
みさ緒がかすかに動いた。
遠くで雷鳴が聞こえて、雨が激しくなってきた。
恭一朗は、みさ緒の頬からそっと手を離すと、静かに部屋から出て行った。
「恭一朗、勝五郎から知らせがあった。お前たちが
羽衣楼の主が警察に引っ張られて事情を聴かれたという。
勝五郎が聞いたところでは、行方知れずになってこちらも捜していた、と必死の弁明だったということだ。
決め手は、遺体が身に着けていた着物で、
みさ緒が口走った「手のほくろ」も、そのとおりで、惚れた男への
「父さん…みさ緒は、やっぱり…」
「思い出していたんだな、ほんの一瞬ではあったようだが…」
「…
「…そうだな」
恭一朗の暗い気持ちにさらに追い打ちをかけるように琢磨が言った。
「恭一朗…巴も狙われた…」
「え? 何ですって?」
「辰治が巴を
辰治に荷車がぶつかった後、荷車を押していた
松吉に調べさせると、臨時雇いの者の中に、誰が世話したのかわからない者がひとり混じっていて、しかも、辰治にぶつかった事故の後、給金も
「では、その男が事故を仕組んだ、ということですか?」
「嫌な話だが…そうじゃないか、と勝五郎が言っていた」
「何という…」
恭一朗は絶句した。
「不幸中の幸いで、辰治は打ち身で済んだらしいが…。
想像だが…大怪我するのは、巴でも辰治でもよかったんじゃないかと思う。巴が怪我すれば、冴島一族に大きな衝撃を与えられるし、怪我をするのが辰治なら、冴島商会と関係の深い奥村組にとって大きな痛手だ。しかも、冴島家にとっても守り手が手薄になるのは
あまりの悪質さに恭一朗は黙り込んだ。一つ間違えば命を失う。
「父さん…まさか…羽衣楼の
恭一朗がふと口にした。
「…いや…そこまでは…わからん。事故か自殺か…事件かも未だ何もわかっていない」
「みさ緒が記憶の一部を失っていることは知らないでしょうから…
「まさか…。そんなことで、人を殺すとは…」
考えられないことだ、と琢磨が言った。
「それは…そうですね。でも、一体誰が、こんなことを…」
今のところ、思い当たる人物はいない。
「まだ、手がかりはないが…これだけのことを仕掛けてきているんだ。今に必ず
琢磨はそう言ったが、
---こんな風にあの手この手と仕掛けられては防ぎようがない---
恭一朗の言葉が現実となってきていた。
その頃---
羽衣楼の奥では、坊主頭が例の男を問い詰めていた。
「おい、どういうことだ?…しばらく二人を預けるから少し痛い目に合わせてやれ、とは言ったが、殺せとは
「何をまた…。警察には、行方不明になって捜していました、と言ったんだろ? その通りだ。こっちも、あの婆が急に行方知れずになって、捜してたんだぜ」
そう言いながら、薄笑いをしている。何を考えているかわからない気味の悪い男だった。
「まさか…若い方まで手にかけたんじゃないだろうな」
「おっと…人聞きが悪いことを言いなさんな。婆さんの方だって手にかけちゃいねぇぜ。行方知れずになって困ってたのはこっちもご同様だ。それに、心配するな。若い方はちゃんと生きてる」
「だったら、連れて来い。もう、預けるのは
これ以上、犯罪に巻き込まれるのはごめんだった。
「そのうち、な」
いつ戻すとも言わず、
が、急に振り返ると、
「何をそんなに
そう言って、薄笑いを浮かべたまま、男は出て行った。
…あんなことを言っていたが、
みさ緒を逃がす手引きをしたのが、りよだとわかって、しかも
怒りに任せて、二人をひどく痛めつけて見せしめにしてやろう、と思ったのが間違いの始まりだった…
----こちらで預かっておけば、
(あの男をうまく利用してやるつもりでいたが、とんだ見込み違いだった…)
下手すれば、こっちが人殺しにされかねない…。
あの男の目的は何だ?
こっちはこっちでやることがある、と言っていた。
何をしでかすかわからない男だ…男のひんやりとしたガラス玉のような目を思い出して背筋がゾッとした。
坊主頭は、男と関わりを持ってしまったことを
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます