第46話

 恭一朗は、みさ緒を心配する気持ちを抑えて、冴島商会の倉庫に起きた火事の話に戻した。


「私も今回の火事はどこかおかしいと感じています。火が出た倉庫は全く火の気のない場所ですから。それに、うちの社員も、もちろん奥村組の皆さんも、火の用心は徹底しています」


 すると、

「実は…三日ほど前に、気になることがありまして…」

 勝五郎が言い出した。


 辰治が不審な者を見かけた、というのだ。


「見かけた場所ってのが、港湾で働いている者でも、よっぽど用がなけりゃ行かない場所でして…。辰治からその話を聞いて、毎晩見回りを出して用心していたんですが…。裏をかかれたような形になってしまいました」


 火事が出た倉庫は、人影を見た場所からは反対の方角だったという。



「そうか…やはり、何かありそうだな…。勝五郎たちに勘付かれたとわかって、場所を変えたのかもしれん」


「…キナ臭い感じがいたしますねぇ」

 勝五郎も同調している。


「狙いは…冴島商会でしょうか」

 恭一朗が言った。


「どうだろうな…。フミの家が荒らされたことを考えると…冴島家を狙ってのことかもしれんな」


 ですが旦那、と勝五郎が口を挟んだ。

「私のようなものが口幅くちはばったいことを言うようですが、冴島商会の商売ぶりは見事にきれいなもんじゃございませんか。恨みを買うようなことは何一つ…。私からすると、冴島商会や旦那のご一族に危害を加えようなんて、見当違いもはなはだしいことに思えますがねぇ…」


「勝五郎…ありがとう。だが…世の中さまざまだ。あいつさえ、いなければ…、あの会社さえなかったら…と自分の不運を嘆く者もいるだろう。それがこうじて…ということも考えられる」


「おそらく、フミの家を荒らしたのは嫌がらせのつもりでしょう。それにしても…よく調べ上げた、と驚いています。フミとみさ緒が冴島家とつながりがある者だ、ということは、あの村でも知っている者はいなかったはずですから」


 そう言ってから、恭一朗がハッと顔を上げた。

「すると、この間、みさ緒が連れ去られそうになったのも今回の火事騒ぎとつながりが…?」


「あるいは、な」


「そうだとすると…かなり深刻ですね。これまで、冴島商会への小さな嫌がらせは幾度となくありましたが…これだけいろんなことを仕掛けられたんじゃ防ぎようがない…。一体誰がこんなことを…」


 恭一朗の言葉に、部屋の中は重苦しい空気に包まれた。






 火事から一か月が過ぎたが、異変が続くことはなく、日々平穏に過ぎて行った。



 そんなある日、みさ緒は巴に付き添われて横浜港に向かっていた。

 奥村組の辰治のためにみさ緒が仕立てていた着物が出来上がったのだ。


 みさ緒は、お礼の品だからという理由で、辰治に直接手渡すことにこだわっていた。


 一か月事件が起きていないからと言って、甘く考えているわけではなかったが、やはり当初よりも警戒心はゆるんできていた。


 巴の車の後ろからは恭一朗の車が続いていた。みさ緒のことが心配でたまらないのだ。

 辰治ほどではないが、恭一朗も、その辺のごろつきなら簡単にひねるほどの腕力がある。

 みさ緒にもし何かあれば、この身と引換えにしてでもみさ緒を守る覚悟だった。


 それに…港には辰治もいる…。

 そこから先は辰治に任せればいいのだ、自分は影でいい、そう思っていた。




 琢磨の屋敷から横浜港までは近い。あっという間の道のりで、港の入り口で辰治が待っているのが見えた。



 港の中は、荷物を運ぶ大勢の労働者のかけ声や船の汽笛、そして近くには鉄道の横浜停車場もあって、雑多な音が洪水のように溢れていた。


 先を歩く辰治が振り返って何か言ったが、よくわからなかった。


 巴がみさ緒の隣に並んで歩き出したそのとき、後から大声が聞こえた。


「どけっ! ぶつかるぞーっ!」

「あぶねぇっ!」


 切羽せっぱ詰まった声と共に、数人がかりで押している荷車ががらがらと音を立てて巴に向かって来ていた。


 どんっ…


 鈍い大きな音がして、辰治が地面に転がっていた。


 荷を満載した荷車が辰治を跳ね飛ばしていた。


 巴は辰治に突き飛ばされてはしに倒れている。

 間一髪、巴は辰治に助けられたのだ。


「辰治の兄貴っ」


「辰治さんっ」


 荷車の男たちが慌てて駆け寄ってくる。


「・・っ痛」

 辰治が顔をゆがめている。かなりの衝撃だった。


「兄貴っ、すいませんっ、大丈夫ですか? すいませんっ」


「辰治さん、すいませんっ」


 口々に心配顔で声をかけている。

 辰治は、港で働く男たちに一目いちもく二目にもくも置かれる存在なのだ。


「……大丈夫だ。行ってくれ」


「でも…」

 男たちは辰治をこのままにして行っていいものかどうか躊躇ちゅうちょしていた。

 いいから行け、段取りが狂うと他が迷惑する、と叱るように辰治に言われてようやくその場から離れて行った。


 巴は腰が抜けたようになっていたが、ようやく立ち上がると辰治に駆け寄った。


 そんな巴には目もくれず、辰治は大声で松吉を呼ぶと、真剣な顔で何事か耳打ちしている。

 松吉は頷いて走って行った。


 そして、巴に向かって言った。

「あんたは、すぐ帰れ。ここに居ない方がいい。次は怪我じゃすまないかもしれねぇ…」

 辰治は怖ろしいことを口にしていた。






 用を終えたみさ緒が辰治と一緒に奥村組の建物から出ると、恭一朗が待っていた。


 辰治に帰るように言われた巴の代わりに迎えに来たのだ。


 恭一朗は優しい目をしてみさ緒を見つめている。


 今のみさ緒には、恭一朗の想いなど届かないことはわかっている。

 それでも、みさ緒を愛おしいと思う気持ちは抑えられない。恭一朗の瞳は、みさ緒への愛で溢れていた。


 もう、ひところのように、みさ緒の気持ちを取り戻したい、とあせる気持ちは消えていた。今はただ、みさ緒の平穏と幸せだけを願っていた。



 そして…そんな恭一朗を、辰治もまた複雑な思いで見ていた。



 二人の男の秘めた思いが交錯する中、「女の水死人が上がった」と言う声が聞こえて、辺りは急に騒然となった。


 バタバタと走り回る足音が聞こえて幾人もの人が走って行く。



「中に入ったほうがいい」


 みさ緒の目にれさせないようにとの配慮だったが、辰治が言い終わらないうちに、むしろをかけられた遺体が三人の前を通り過ぎようとしていた。


 筵からはみ出して、手がぶらりと下がっている。

 着物の袖からは、ぼたぼたと水がしたたって、その遺体がついさっきまで水の中にあったことを教えていた。



 恐々こわごわと見ていたみさ緒の様子が急変したのは、そのときだった。


 みさ緒は、しゃがみこんで、はあはあと肩で大きく息をしていた。吐き気も催しているようで口元を押さえて苦しそうにしている。


 隣に立っている辰治がしゃがんで、心配そうにみさ緒の様子を見ている。


 可哀そうで、すぐに抱き上げて奥村組の座敷に運んでやりたいところだが、恭一朗の前でははばかられた。


(みさ緒お嬢さんは、若旦那の想い人…)


 勝五郎の言った言葉が辰治の心に重く響いていた。



「みさ緒…大丈夫か?」


 みさ緒の顔を覗き込むようにして恭一朗が声をかけた。


 みさ緒は青白い顔を上げると言った。


「…知って…る…んです」


「え?」


「…あの着物の柄…それに…手のほくろが…」


「今の遺体…知っている人なのか? ほくろ?」


「入れぼくろだって言って…好きな人と…」


「その人が、そう言ったのか?」


「恭一朗さま…」

 みさ緒は恭一朗の名を呼んだ。


 みさ緒が記憶の一部を失って以来、自分から恭一朗の名を呼ぶのは初めてのことだった。


「みさ緒…」


 怖い…といってみさ緒はごく自然に恭一朗の腕にすがっていた。


「みさ緒…詳しく聞かせてくれないか」


 みさ緒の背を優しく撫でながら恭一朗が言った。


 すると、みさ緒は我に返ったようにハッとして、すぐに恭一朗から離れた。


 自分でも何なのか…よくわからない…。


 言葉が自然と口をついて出た。死んだ女の人のことを知っていると言ったことも、恭一朗にすがってしまったのも、なぜなのかわからなかった。


「あの…よく…わからないんです。勝手に言葉が…。私…何もわからない…」


 迷子になってしまったような心細さと不安で、みさ緒は泣き出してしまった。

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