第44話

「いいのか? 恭一朗」


 恭一朗は辰治に、これからはみさ緒が望んだらみさ緒の相手をしてやって欲しいと頼んでいたのだった。


「何がです?」


「いや…」


 恭一朗の行動が琢磨には理解できないでいた。


 恭一朗はしばらく黙ってうつむいていたが、顔を上げると静かに話し始めた。


「父さん…子供の頃、みさ緒を助けるために、私が怪我をして傷だらけになったことを覚えていますか?」


 恭一朗の口から出たのは、思いがけず子供の頃の話だった。


「え? あ、あぁ…覚えているよ、カラタチだろ。血だらけのお前を見て驚いた」


「そうでした。でも…私自身は子供ながらに誇らしく思っていました。この小さくて愛らしい宝物を守ることができた、と」


「そうか…」

 その頃のみさ緒は確か二歳くらい、恭一朗は十二歳だったはずだ。


「成長したみさ緒に再会した時も、同じ気持ちでした。大きくなっても、私にとってみさ緒は、昔と何も変わらない、小さくて愛らしい宝物のままでした。みさ緒を守るのは私の役目だ、そう思って…保護者のような気でいました」


「うん…」


 みさ緒は家族同然だったフミを亡くし、一人ぼっちになったところを伯父の琢磨に引き取られて冴島家にやって来た。見ず知らずの人間にかこまれて、さぞ孤独だったろうと容易に想像がつく。


「そして、小さくて愛らしい宝物だったみさ緒は、いつしか…私をきつけてやまない一人の女性になっていました。

 これほどまでにいとおしいと思える相手に巡り合えるとは思わなかった。小さかったみさ緒を守ったあのときから、私にとってみさ緒は、運命の相手だったのかもしれない。そう思うほど、みさ緒が愛おしい…愛おしくてたまらないんです」


「恭一朗…」


 みさ緒に惹かれているのはわかっていたが、これほど率直にみさ緒への思いを口にする恭一朗を初めて見た。恭一朗自身にも何か変化が起きているようだ、と琢磨は思った。


「でも、今は…私じゃ駄目なんです、父さん」

 恭一朗は淋しそうに笑った。


 確かにみさ緒は恭一朗のことを覚えていないどころか、関わることをけるような素振そぶりさえ見せている。


「みさ緒を守るために辰治の力を貸して欲しい、ただそれだけです。私は影でいい。先のことはわかりません。みさ緒が誰を選ぼうと、誰の手を取ろうと、みさ緒が幸せになるなら、私はそれで…いいんです」







「あ、あの…動かないでください。すぐに終わりますから…」


 みさ緒がそう言うと、辰治は仏頂面ぶっちょうづらのまま立ちん坊になった。


「旦那様、みさ緒様のあんなに明るいお顔は久しぶりで…。本当にようございました」


 みさ緒は辰治の着物を縫うための寸法を測っていた。


 琢磨は複雑な思いでそれを見ていた。




 みさ緒が辰治に礼がしたい、と思ったのは本当だ。あの日、目の前に立っていた辰治の着物は、あちこち切りかれていた。


 だが一方で、得意な仕立物に熱中していれば、もしかしたら、自分の心も少しは落ち着いて、奇妙な行動が無くなるのではないか、とみさ緒なりに考えたことでもあった。





「あっ、痛っ」


 針で指を刺した。今日はこれで何度目だろう。


 失敗ばかりして、全然はかどっていない。

 フミに仕込まれて、お針には自信があったのに…。


 多分…ふと頭に浮かんだことが気になって、集中できないせいだ。



 ・・・前にも誰かのためにこんな風に仕立物をしたことがあったんじゃないだろうか?

 そして、その誰かは、仕立て上げた着物にすぐにそでを通して私に見せてくれたような?・・・



 琢磨のために着物をい上げたことはある。

 縫い手が上手だと着心地が全然違うとめられて、嬉しかったのを覚えている。


 でも、それじゃない。


 一体誰に…。


 みさ緒は、ぼんやりと考え込んでいた。







「冴島さん、少し話があります」


 エドワード医師が帰りがけに琢磨に声をかけた。


 みさ緒が突発的に家出した日以降、ほぼ毎日来て診察してくれている。あの家出も病状の一つだと言われていた。


「みさ緒の夢の話です」


「繰り返し見たというあれですか?」


「あれは妄想もうそうなどではありません。事実の投影、です。

 冴島さん、みさ緒がここに運び込まれた時、みさ緒の手足にはしばられた跡がありました。ですから、縛られたまま岩屋いわやに閉じ込められていたのか、と考えたのです。夢の話をみさ緒から聞いたときに。ですが…」


「そうではない、と?」


「…みさ緒はあの夢に、憎悪ともいえるような激しい嫌悪を抱いています。恐怖じゃない。そして、あきらめです」


「すると…」


「みさ緒を誘拐ゆうかいした男は体が大きい、と聞きました。それと…」


 エドワード医師は、いきなり自分の手の甲を舌でべろりとめて見せた。


「虫の正体はこれです」


 琢磨の顔は一瞬、鬼の形相ぎょうそうに変わった、が、すぐに怒りは表情の奥にしまわれた。

 年を重ねて、感情が大きく表に出ることは少なくなっていたが、やはりこういう暴力は我慢できない。


「恭一朗さんの前では、この話はできませんでした。どこか、思い詰めているようなところが見られて、少し心配しています」


「そうですか…」


「お伝えしたかったのは、夢の正体もですが、もしかしたらみさ緒は、記憶を取り戻す日が近づいているのかもしれない、ということです」


「え?」


「深い水の底から、気泡きほうがゆっくりと上がってくるように、何と言うか…失った記憶が姿を現そうとしているのかもしれません。幻聴げんちょうも何らかの意味があると考えています。みさ緒の様子に注意していてください」








「松、ちょっと俺の部屋に来い」


 いきなり勝五郎に言われて、松吉は飛び上がった。

 ひょっとして、骨折り損だなどと言ったことが親分の耳に入ったかと、びくびくしながら親分の後を歩いて行った。


 松吉は、神妙しんみょう面持おももちで勝五郎の前に座っていた。


「辰治は、どうしてる?」

 なんだ、兄貴のことかと少し緊張がほぐれた。


「え…兄貴なら、さっき冴島のお屋敷から戻ってきました。そういや、なんか珍しく機嫌きげん良さそうな顔で…」


 そうか…と言ったきり、勝五郎は難しい顔をして黙ってしまった。


「あのぅ…」


 しびれを切らして松吉が呼びかけると、ようやく口を開いた。


「松、辰治は…全く女っ気なしか?」


「へ?」


「へ?じゃねぇ。どうなんだ?」


「それは…親分もご存知の通りで…。あれだけの男ぶりなのに浮いたうわさ一つない。さっぱりしたもんです」


「ふ…ん、お前が見ててもそうか…」


「そりゃぁ、情人いろになりたい、情人いろにしたいってねえさん方はたくさんいますがね。兄貴に全然その気がないから…」


 他人事ひとごとだから、松吉の口はよく動く。


「そういう姐さん方以外には?」


「聞こえてこないですねぇ」


 と返事をした後、そうだ、と眼を輝かせて言った。


「あ、ほら。この間、兄貴を訪ねて飛び切りの美人が来たじゃねえですか? あれはどうなったんです?」


「馬鹿、あの人はそんなんじゃねぇ」


 逆に松吉から聞かれて勝五郎が不機嫌になったところで、話は終わった。


 勝五郎は勝五郎なりに、何とか辰治をみさ緒から遠ざけたい、と考えていた。




 みさ緒の周りで、それぞれがそれぞれの幸せを思って思惑が交差していた。

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