第43話

 最後まで残った男は、

 みさ緒の喉元のどもとに刃物を当てて、近づくなと怒鳴っている。


 辰治と男は互いに相手の出方をうかがってにらみ合っていた。


 男がそろりと動いたそのとき、

 横から飛び込んで、男の刃物を叩き落したのは恭一朗だった。


(若旦那…)


 男は恭一朗のけんを食らってあっけなく崩れ落ちた。




 やっと解放されて、ぼうっとしているみさ緒を恭一朗は無言で抱きしめた。

 言葉より先に体が動いていた。

(よかった…)

 心の底から安堵あんどしていた。



「みさ緒、大丈夫か? 怪我はないか?」


 恭一朗は、みさ緒に怪我がないことを確かめると、

 今度はしっかりとみさ緒を抱きしめた。人目ひとめなど関係なかった。


「あ…私どうして…。あの…離して…ください。息が…できな…」


 みさ緒はあらがうようにもがいていたが、恭一朗は、みさ緒を離さなかった。

 もうしばらく、みさ緒の無事を感じていたい、と思った。



 それに…心のどこかで辰治の目を意識していた。




 遠くから警官が走って来るのが見えたところで、早くこの場から去るようにと辰治にうながされた。後は、勝五郎がいいようにおさめるだろうと言う。


「面倒なことになるといけません。早く…」





「兄貴、片付いてよかったですね」


 そういう言葉とは裏腹に、松吉は不服そうな顔をしている。

 喉元のどもとでぶつぶつと独り言を言っていた。


「どうした? 言いたいことがあるならはっきり言えよ」


 辰治が言うと、松吉が子供みたいに口をとがらせた。


「兄貴…俺、何だかすっきりしねぇんですよ。兄貴は何とも思ってないんですか? 若旦那にいいところを全部持って行かれちまって…。兄貴が奴らの大半をやっつけた頃にさっと現れて、こっちは骨折り損っていうか…俺は、面白くねぇ!」


 確かに、みさ緒を取り囲んでいた男たちは、場数を踏んだ玄人くろうとだった。その辺のごろつきを相手にするのとは訳が違う。


 男たちはおそらく金で頼まれたのだろう。恐れげもなく刃物を使って襲って来て、辰治と言えど無傷では済まなかった。浅い刃物傷があちこちにできていた。



「…つまんねぇこと言ってないで、早く親分に知らせてこい」


 そう言ったものの、松吉の言葉で辰治は胸の中のもやもやの正体がわかった気がしていた。


 みさ緒が恭一朗に抱きしめられていた…その姿も強烈に目に焼き付いている。


 辰治の胸中には、自分でも予期せぬ複雑な感情が湧き起こっていた。







「覚えていない?」


「どういうことですか?」


 琢磨と恭一朗が同時に声を上げた。


 エドワード医師から説明を受けていた。


「みさ緒は、恭一朗さんが飛び込んできたところで、突然目が覚めた気がした、と言っていました。自分の部屋で寝ていたはずなのに、何故ここに立っているのか理解できずに、かなり混乱したようです」


「どうしてそんなことが…」

 理解できない、と琢磨が言った。


「これもみさ緒の病状のひとつと考えています。突発的な家出です。極めてまれなことですが…現状からのがれたい願望の表れだと考えられています。数時間で、突然、発症前の元の自分に戻ることが多いのですが、家出の最中に起きた出来事について記憶がないことがほとんどです」


「逃れたい…ですか」


「私たちに何か落ち度が…」

 琢磨が尋ねた。


「みさ緒は…突然発作を起こしたり、不気味な夢を何度も見たり、幻聴げんちょうまで起きたりして、自分は何か恐ろしいものに取りかれてしまったのではないか、と思い詰めていたようですね。そのせいで、周りの人に迷惑をかけているのがとても辛い、しかも自分で防ぐことができない、どうにもならないのがよけいに辛い、と言っていました」


「みさ緒がそんなことを…」


 エドワード医師はふと表情をやわらげると恭一朗に言った。


「恭一朗さん…、みさ緒を抱きしめたそうですね」


「えっ」


「いえ、からかっているのではありません。よかった、と言っているのです。みさ緒が突然、元の自分に戻ったと同時に、恭一朗さんに抱擁ほうようされて、あの場での混乱の要因がすり替わりました」


 恭一朗は複雑な表情を浮かべていた。


 自分は、喜びと安堵あんどとでみさ緒を抱きしめずにはいられなかった。だが、みさ緒にとっては困惑の種だったらしい…。

 

 二人の思いはどこまでもすれ違っている、その現実を突き付けられたようで気持ちが沈んだ。


 恭一朗の胸をさらに突き刺さしたのは、エドワード医師の次の言葉だった。


「その場に、辰治という人がいましたか? 彼が傷だらけだったのが随分気になったようですよ」


 あの短い時間の中で、辰治のことをそこまで見ていた…。


「恭一朗、とにかくみさ緒は無事だったんだ。まずはそれを喜ぼう」


 琢磨がとりなすように恭一朗の肩を軽く叩いて言った。

 言葉にせずとも恭一朗の苦しい胸の内はわかっている。

 

 父親として、恭一朗の男としてのプライドを大事にしてやりたいと思った。



 みさ緒には、もう少し自由にさせた方がいい、というのがエドワード医師を含めた三人の結論だった。今までみさ緒を心配するあまりかごの鳥にし過ぎたかもしれない。






 次の日…。

 

 勝五郎が琢磨の屋敷を訪ねてきた。辰治も一緒だ。


「辰治、今回も本当に世話になった。ありがとう。助かった」


 辰治は、いえ、とだけ言うと黙って頭を下げている。


「今回の騒動は、辰治がごろつきにからまれたってことで始末をつけました」


 勝五郎が事件の顛末てんまつを報告した。


「金で雇われた連中だってことは、わかっているんですが雇い主がどうもはっきりしませんで…」


「羽衣楼じゃないのか?」


 勝五郎の意外な言葉に驚いていた。


「先日、こちらのお屋敷の外で見かけた男は、間違いなくトウシロでした。ですが、今回の相手は玄人だと辰治が言ってますんで…。警察で奴らの様子を見ましたが、落ち着いたもんでしてね」


「そうか…」


「今回に限って急に玄人が出てくるってのもおかしな話で、何か裏があるような気がしています」


「わかった。なんにせよ、辰治のおかげで、雇い主とやらも、しばらくはおとなしくしているだろう」


 勝五郎は、話題を変えると

「それと例のかぐらって源氏名の妓、りよさん、ですか?」


「うん」


やぶつつき過ぎて蛇を出したんじゃ、もともなくなっちまいますから、そろりそろりと調べてはいるんですが…どうもその後の消息しょうそくがよくわからないんで…」


「…そうか」


「こちらも、しばらくお時間いただければ…」




 二人が帰ろうとしていると恭一朗が辰治に声をかけた。話があるようだった。






 奥村組に戻ると、勝五郎は辰治を部屋に呼んだ。

 琢磨の屋敷からの帰り道、辰治はずっとむずかしい顔をしていて、話を聞けるような雰囲気ではなかったのだ。



「辰治、立ち入ったことを聞くようだが…、何だったんだ? 若旦那の話ってのは」


「…別に」


「別にってことはないだろう。お前、帰り道はずっと不機嫌だったじゃねぇか」


「・・・ってくれと」


「え?」


「若旦那が、傷は大丈夫かと気遣ってくれました」


「うん、それで? それだけじゃないんだろ?」


「これからは、旦那や若旦那から頼まれなくても、お嬢さんが望んだら相手をしてやってくれ、と」


「どういうことだ?」


「わからねぇ…。ただ、お嬢さんが望んだら、とだけで…」


「…辰治…深入りするな。今のお嬢さんの状況なら、お前は若旦那の身代わりだよ」


「・・・・・」


「おい、辰、聞いているのか?」


「…身代わりでもいい、って言ったら?」


「辰治…」



 辰治が出て行ったあと、勝五郎は深くため息をついた。


 …思い詰めた顔しやがって…。


(道理で…)

 驚いたはずだ。勝五郎は一人ひとり納得していた。


 若旦那の想い人がみさ緒だと辰治に告げたときのことだ。いつもは他人の色恋いりこいには無関心の辰治が驚いた顔を見せた。


 身代わりでもいい、とはな…。


 …純情な鬼、か…。


 (俺はお前に幸せになってもらいたいんだよ、辰治…)

 

 勝五郎は低く呟いた。

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