第40話

 恭一朗はテラスに立って海の方をながめていた。

 ここからは横浜港も海も見える。

 

 子供の頃からこの場所が好きだった…。


 何かに迷ったり悩みがしょうじたりしたときには、いつもここに来た。

 ここで海を眺めていると時間がつのも忘れて、いつの間にか心が落ち着いて気持ちの整理がついていた。


 尊敬する父、琢磨が先代から引き継いで日本を代表する商社の一つに育て上げた冴島商会だが、琢磨の後継こうけいは恭一朗ではなく、本家ほんけの跡取りにまかせる計画がある、という話を聞かされた時にも、ここに来て海を眺めていた。

 

 まだ、ほんの子供の恭一朗にそんな話を聞かせようといういやな大人がいたのだ。


 今日も恭一朗は気持ちの整理をつけようとこのテラスに立った。

 だが、心はざわついたままだ。こんなことは初めてだった。


 …原因は…みさ緒だ。



 恭一朗は生まれて初めて嫉妬しっとの感情にさいなまれていた。


 みさ緒の口から辰治の名前を聞いた日から、心のざわつきがおさまらない。


 みさ緒が辰治を頼りにしているらしいのが辛かった。


 みさ緒が記憶の一部を失ってしまった今…みさ緒の中に恭一朗はいない…。

 それは理解しているつもりだった。

 

 だが、理屈りくつで心はおさえつけられない…。


 …なぜ…辰治なのだ…なぜ私ではないのだ…それが苦しくて仕方なかった。


 今に…みさ緒は辰治をしたうようになるのではないだろうか…

 

 そう考えるだけで胸が張り裂けそうだ…。


 嫉妬の感情が、これほど激しく心をさぶるものだとは知らなかった…。


 みさ緒の中から私が消えてしまったとしても、みさ緒が安らかならそれでいいと思った…その気持ちに嘘はない…。


 みさ緒の幸せを思う気持ちとみさ緒を愛するがゆえの嫉妬のはざまで、どうすることがいいのか、どうすべきなのか恭一朗は思いあぐねていた。







「おい、松。親分が呼んでいなさる。早く行きな」

 そう言われて、松吉は「ひぇっ」とも「ふぇっ」ともつかぬおかしな声を出した。何かまずいことを聞かれそうな気がしている。


 恐る恐る勝五郎の部屋の戸を開けると、すでに辰治が座っていた。


(やっぱり…あれか…)

 辰治に言われて、勝五郎に内緒で外国船の船員が起こした騒ぎを調べていた。


「松、ずいぶん熱心に調べ物をしてるっていうじゃねぇか」


「えっと…あのぅ…な、何のことやら…」


 松吉がしどろもどろになって、ちらと辰治の方を見るのを、勝五郎はおかしそうに眺めている。


「松、いいから話しな。辰治と話はついてるから…怒ったりしねぇよ」


 勝五郎の言葉に辰治が軽くうなずくのを確認して、ようやく松吉は話し始めた。


「…すると、羽衣楼はごろもろうの騒ぎの首謀者しゅぼうしゃは、まだはっきりしない、ってことだな」


 松吉の話を一通ひととおり聞いた後で、勝五郎が言った。


「船員同士の仲間意識ってやつでしょうかねぇ。みんな口が固くて、そんなことがあったとは覚えてないってな態度でして…。ただ、あきらめずに何回かかよう内に、ぽつぽつと話してくれる船員もでてきて、騒ぎの中心になっていた船員はわかりました」


「そうか…。一旦いったんはそこまでってことか」


 勝五郎が言うと、松吉は得意顔になって続けた。


「へへっ、それがね。こっそり話してくれた奴がいましてね。中心になってた船員に騒ぎを起こしてくれと頼んだのは、どうやら羽衣楼で働く娘らしいって話です」


「何だと?」


「何でもその船員が贔屓ひいきにしているむすめだってことでした。ただ、まだ名前までは…」


「…松、上出来じょうできだ。行っていいよ」


 辰治はまだ話があるからと言われて残っている。


「辰治、松は知らねぇんだろ?」


 松吉にはみさ緒に起こった出来事について何も話していない。本当に迷子になったところを助けたと思い込んでいた。

 羽衣楼の騒ぎの件も、外国船の船員が起こしたことだから、奥村組としては見過ごしにはできないのだと言われて調べているに過ぎなかった。


 辰治の説明を聞いてうんうんと頷くと、勝五郎は急に別のことを言い出した。


「で、この間の冴島の旦那の姪御めいごさんは何の用だったんだ?」


 勝五郎も気になっていたのだろう。

 

 もちろん、辰治を訪ねてきた相手が琢磨の姪だった、ということもあるだろうが、勝五郎には、多分に野次馬的やじうまてきなところがある。

 といっても醜聞ゴシップ好きということでもない。横浜界隈よこはまかいわいで起きたことは何でも知っておきたいのだ。

 そのおかげで辰治の起こした事件が勝五郎の耳に入って、辰治が救われたという過去もあった。


「…まぁ…みさ緒お嬢さんをこれ以上構いじょうかまうなって話で…」

 ぼそっと辰治が答えた。


 勝五郎はしばらく目を閉じて黙っていたが

「なぁ、辰治…。構うなって話が冴島の旦那から出た話なら、姪御めいごさんから話をさせるはずはねぇ。直接、旦那から話があるはずだ。多分、ここに来たのは姪御さんの一存いちぞんだろう。だがな、俺もお前に同じことを言うよ。…あまり深入ふかいりするな」


 辰治は不満そうな表情で黙っていた。

 それに気付かないふりをして勝五郎が続けた。


「みさ緒お嬢さんは…若旦那わかだんなおもびとだよ」


 えっと驚いて勝五郎を見る辰治に、うなずいて見せると

「やっぱり気付いてなかったんだな…。俺はお前がみさ緒お嬢さんを助けた次の日に二人で若旦那に会ったときに気が付いた。若旦那は心底しんそこみさ緒お嬢さんにれていなさる、と見た」


「・・・」


「だからさ、姪御さんが居ても立ってもいられずにここまで来たんだろ。まわりの人間が気をむようなことが起きてるんだと思うよ…」


「…俺はやましい気持ちはひとっかけらも…」


「わかってるさ。みさ緒お嬢さんにお千代坊をかさねて心配でならねぇんだろ? お千代坊は可哀そうなことになっちまったからな…」


 しんみりとした調子になった勝五郎に

「俺はお千代の気持ちが何にもわかっちゃいなかったって、あとになってわかったんでね…」


「…後の祭り、か」


「ふさぎ込んでるお千代に、早く忘れて元気になれって、そればっかり言って励ましているつもりになってましたよ…」


 今日の辰治はめずらしく饒舌じょうぜつだ。


「みさ緒お嬢さんが、色々忘れちまっているのも、お千代がふさぎ込んでいたのと同じだと思ってね…」


「そうか…」

 辰治はいまだに千代を亡くした悲しみがえていないのだ。

 だからこそ二の舞があってはならないと案じているのか…勝五郎は改めて辰治の気持ちを思いやった。


「…そんなつもりでせっかく調べてくれたんだ。冴島の旦那のところに羽衣楼の騒動の件でわかったことをお知らせに行かなくちゃならねぇな」

 勝五郎はそう言うと煙管きせるをこんっと打ち付けて灰を落とした。

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