第39話

 巴は奥村組の入り口に立っていた。


 何としても辰治に会って、言わなければならないことがある。


 さっきから何度も大きな声で呼びかけているのに、誰も振り向いてくれない。

 帳面をつける者、打ち合わせをする者、様々な声が飛び交っていて、それぞれが自分の仕事で忙しい。その上、人の出入りも激しくて、巴をちらとは見ても、まともに注意を払う者はいなかった。


「ごめんください」


 諦めずに声をかけ続けていると、ようやく一人が巴の方を見た。


「おぅ、なんだい」

 答えたものの、巴の様子に明らかに戸惑とまどっている。あまりにも場違ばちがいなたたずまいに、ひょっとして尋ねる場所を間違ったかと思っているようだ。


「ここは奥村組だが…あんた、うちに用かい」


「こちらの辰治さんにお会いしたいのです」


「あ、辰治さんの知り合いか。辰治さんは今、親分と桟橋さんばしあたりまで行ってなさる。戻って来るまで、少し待っててもらわないとならねぇな」


 この頃になると、周りの人間も巴に気付いて、目引めひ袖引そでひながめている。港湾のこんなガヤガヤした場所に初めて来ただろうに、巴は若い娘に似合わず落ち着いた様子で堂々としている。その上、周りを圧倒するような華やかな美貌びぼうをしていた。


「辰治さんに用だってよ」

「辰治さんも隅に置けねぇな。あんな美人と知り合いとはな」

 などとささやき合う声が波のようにざわざわと広がっている。


「あ、戻って来た」誰かが勝五郎と辰治の姿を見つけてそう言うと、みんなの視線は一斉に辰治に向けられた。


「大倉巴といいます。辰治さん、先ほどは・・・・」


 巴が言いかけると、すかさず勝五郎が声をかけた。

「こんな入り口じゃなんだから、中にお入りになりませんか」


 奥村組の親分だと紹介されて、巴も改めて名乗ると、琢磨のめいだと付け加えた。


「そうですか。冴島の旦那の姪御めいごさんですか…。辰治、失礼がないようにな」

 そう言って挨拶だけすると、勝五郎は出て行った。


 辰治は憮然ぶぜんとした顔で巴を見ている。何しに来たと言わんばかりだ。

 野次馬やじうまから向けられたうわついた視線とざわめきが気にわない。


「…で、俺に用ってのは?」


 用とやらを早く片付けてさっさと帰ってもらいたい。


 辰治の問いかけに、巴はびを言いに来たと言った。

「先ほどは…」

 冴島の屋敷での非礼ひれいを詫びる巴に

「別にいいさ」

 それだけ言うと、これで終わりだと言うように、もう辰治は立ち上がっていた。




 辰治は片手を懐手ふところでにしたまま巴と歩いていた。機嫌きげんが悪い時の辰治のくせだ。

 勝五郎に言われて、巴を大通りまで送って行くことになったのが面白くない。


 すると、黙って歩いていた巴が急に口を開いた。


「辰治さん…みさ緒のことはもう、かまわないでいただきたいんですの。これから先は、みさ緒のことは冴島の家におまかせください」


(なるほど…本筋ほんすじは、こっちの話か…)

 そう思いながら辰治は黙って聞いていたが、足を止めるとうすく笑って言った。


「それは…何とも言えねぇな」


「え?」


「道で、みさ緒お嬢さんに出会でくわしたのも、今日のことも、たまたまのことでね」

 でも…と、巴が何か言おうとする前に、辰治が続けた。


「たまたま、目の前に困っている人がいて、助けようと動いた、それだけのことだ。誰でもすることだろ? それとも、あんたは知らん顔するのか?」


「・・・」


「構うの構わないのって、こっちが仕掛けたことじゃないんでね。それじゃ、気を付けて帰ってくれ」


 一言ひとことも言い返すことができないまま、巴は辰治の背中を見送っていた。







 恭一朗が琢磨の屋敷の玄関に近づくと、みさ緒が立っているのが見えた。


 みさ緒は恭一朗に気が付くと

「こんにちは。いらっしゃいませ」

 と、にこやかに挨拶あいさつをしてきた。

 

 やはり、みさ緒が愛おしい…。

 

 だが、そのみさ緒の笑顔は見知らぬ客に向けられる『よそいき』のものだ。

 恭一朗も挨拶を返しながら、みさ緒がどんどん遠ざかっていくのを感じていた。

 

 今のみさ緒にとって恭一朗は心にひびかない存在だった。


 …仕方がないことだ、みさ緒は記憶をじ込めたからこそ、やすらぎをているのだ…以前のように、はにかんだ笑顔を見せて欲しいと思うのは私のわがままだ…そう自分に言い聞かせても胸の中を冷たい風が吹きぬけていく。

 

 みさ緒がどれだけ大事な存在かを自覚じかくしてしまった今は、どんなに手を伸ばしても、みさ緒には届かない想いがもどかしく、苦しかった。




 使用人たちが騒ぐ声が恭一朗と琢磨が話しをしている部屋にまでひびいて来た。


「どうした? 何かあったのか?」


 恭一朗が部屋から出ていくと、台所辺だいどころあたりに人が集まっている。

 婆やが恭一朗を見つけて飛んで来た。


「よかった…今、お知らせにあがろうと…。みさ緒様が…」


 倒れてしまったみさ緒の周りに人が集まって、介抱かいほうしているようだ。


「みさ緒、みさ緒…大丈夫か? みさ緒」


 名前を呼びながらけ寄ると、みさ緒は真っさおな顔をしてふるえている。目はうつろだ。


 すぐさまみさ緒を抱きかかえて、恭一朗は二階へと運んで行った。




「どうした。また台所で何かあったのか?」

 琢磨も出て来てそう言うと、鼻をくんくんとしている。


 辺りには酒の匂いがただよっていた。


「申し訳ございません。お勝手で粗相そそうがありまして、酒のびんを割ってしまいまして…」


 そういえば、さっき何かが割れるようなガチャンという大きな音がしていた。

 

 その音に驚いたみさ緒がお勝手をのぞいて、急に気分が悪くなったものらしい。




 みさ緒をそっとベッドに寝かしつけると、恭一朗は部屋から出て行こうとしていた。婆やに付き添いを頼むつもりだ。


「行か…ないで…」


(みさ緒?…)


 目を閉じたまま、半ば朦朧もうろうとしながらみさ緒が呼び止めた。


 恭一朗は慌ててそばに戻ると、みさ緒の手を握った。


「みさ緒…苦しいのか?」


「…ひとりに…しないで…怖い…」


「みさ緒…大丈夫だ。私がそばにいるから…」


「辰治さん…お願い…」


 その瞬間とき、恭一朗の胸はにぶい刃物で心臓をつらぬかれたような痛みが走った。ぎりぎりと、無理やり押し込まれるようで息が止まりそうだ…。


 みさ緒…聞きたくなかった…その口から他の男の名前など…

 他の誰かに救いを求める言葉など…


 これが…私に課せられた運命なのか…

 みさ緒…


 恭一朗は目を閉じると、天をあおいだ。








「今日のみさ緒の様子を聞いて、少し整理が付きました」

 エドワード医師が言った。


「というと?」


「冴島さん、やはりみさ緒のむごい体験と関係しているようです」


 琢磨と恭一朗は黙って話を聞いている。


「最初は、婆やさんたちと目が合って、急に激しい発作ほっさおそわれました」


「そうです。ですが、婆やと一緒にいた男も古くから出入でいりの者であやしいところは何も…」


「どんな人ですか?」


青物屋あおものやをしていて、ひょろっと背の高い…あ、いや…今は…」


 青物屋は昔の面影おもかげがなくなったと婆やが言っていた。早速さっそく婆やが呼ばれて詳しく聞くと、青物屋はでっぷりと太った上に髪もって坊主頭にしていると言う。


 琢磨と恭一朗は顔を見合わせた。

「父さん…」

「あぁ…坊主頭の大男だ」

 青物屋の風貌ふうぼう羽衣楼はごろもろうあるじにそっくりだった。


「エドワードさん、青物屋はみさ緒を閉じ込めていた男に見た目の特徴がそっくりです」


「やはり、そうでしたか…。みさ緒をひどい目に合わせた人物の特徴が…何と言うか…みさ緒の脳にり込まれているのではないかと思います」


り込まれている…。それで、似たような風貌の青物屋と目が合って発作が起きたと…」


「危険を感じて、恐怖に襲われたのでしょう…。みさ緒は、自覚していなくとも、脳の奥に閉じ込められた記憶が反応して発作を起こした…とも言えます。発作の激しさから、みさ緒がどれほどむごい思いをしたかが…うかがい知れます」


「…そうですね…」

 恭一朗の声は沈んでいた。


「すると、今日、みさ緒が倒れたのは酒の匂いが?」

 琢磨が言った。


「おそらくそうでしょう。想像ですが…みさ緒が無理やり酒をまされたとか、みさ緒がむごい体験をいられたとき、酒の匂いがただよっていた、とか…」


 エドワード医師が続けた。

「ですが、みさ緒と話をしても、記憶を取り戻している様子は見えない。これから先も、突然何かに対して発作が起きる、という状況は変わらないでしょう。辛いことですが…」


 琢磨と恭一朗は、羽衣楼から逃げだした後もなお、みさ緒におそい掛かる数々の困難に、やり切れない気持ちになっていた。


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