第38話

「…大丈夫ですか? あぁ…だいぶ息もらくになったようだ。さ、降ろしますよ」

 辰治はゆっくりとみさ緒をベッドに降ろした。


「じゃ、俺はこれで…」

 そう言うと、辰治は立ち上がって帰ろうとした。

 だが、みさ緒が辰治の着物の袖を握ったまま離さない。辰治は立ち上がることもできない状況になっていた。みさ緒との距離が近過ぎる。


「お嬢さん、これじゃ帰られない。手を離してもらえますか」


 辰治にそう言われても、みさ緒は離そうとしなかった。

 見かねた婆やが、みさ緒様、手をお離しになりませんと辰治さんがお困りです、と口添くちぞえしても辰治の着物を握りしめたままで、言うことを聞かない。


「みさ緒お嬢さん…どうしなすった?」


 辰治が問いかけてもみさ緒は黙ったままだった。辰治は、ほんの少し苦笑いすると、辰治の着物を握りしめているみさ緒の手を優しくぽんぽんと叩いて、子供をあやすように話しかけた。


「もう、大分落ち着いてきたようだし、顔色も良くなってきているから、大丈夫ですよ。これから後は医者の出番です」


 そう言われて、みさ緒はようやく口を開いた。


「…辰治さんがそばにいてくれるだけで、とても安心して落ち着いていられます。お願いですから…もっと一緒にいてもらえませんか…。急にこんなことになって、私、不安でたまらない…」

 みさ緒は、すがるような目をして辰治を見上げている。


 辰治は一瞬、困った顔になった。

 これほど間近まじかで頼りなさげに見つめられては返事にきゅうする。だが、自分にできることはない。


 後は医者に任せるのが一番だ、と同じ言葉を繰り返すと、みさ緒はようやく手を離した。





 部屋の中で、みさ緒は一人ぽつんとしていた。少し眠っていたらしい。今は婆やもいなかった。大きな窓からは柔らかいの光が差し込んでいる。だが、みさ緒の心はどんよりとくもっていた。心の中にまた、灰色の雲がじわりと広がり始めていた。


 なぜ急に、あんなに苦しくなってしまったのか自分でもわからない。横浜に来てから自分で解決できないことが多くて戸惑ってばかりいる。東京の冴島の屋敷にいた頃は、こんなことはなかったのに…。


 それに…辰治がそばを離れるのがなぜあんなにも不安だったのか…。


 あのとき…頭の中には、ぼんやりと黒い人影が浮かんでいた気がする。なぜか、その人影は自分の味方だと確信があった。一度ならず自分に手を差し伸べてくれた辰治が、その人影とかさなって見えたものか…。それさえもはっきりしない。

 自分の中の一部は、自分の考えを超えたところにあって自分のものじゃないような、おかしな気持ちになってきた。


「どうしたんだろ…私」

 みさ緒はため息をつくと、再び目を閉じた。





 帰って行く辰治を見送った後、婆やは琢磨に気付いて小走りに近寄って来た。


「みさ緒は落ち着いたか?」


「今は呼吸も落ち着いて、静かに休んでおられます。顔色も戻られました。しばらくは付き添ってお見守りいたしますので…」

 それなら、ひとまずは安心ということだ、とつぶやくと婆やに尋ねた。


「一体、何があったのか教えてくれ。こんなことは今までなかったことだ」


 婆やは困惑した様子で答えた。

「それが…頼りないお返事で申し訳ないのですが、何が起きたのか、さっぱり…」


「どういうことだ?」


「あのとき、みさ緒様がお勝手に見えられまして、私に声をかけられました。それで振り向きますと、みさ緒様が急に倒れられて…。あの…呼びかけるお声はいつも通りのご様子でしたので、それはもうびっくりして…」


「台所に来た時には元気な様子だったんだな?」


「はい、そのようなお声でした」


「そうか…。台所には婆や一人だったのか?」


「あ、いえ。ちょうど青物屋が来ておりまして、話をしておりましたが」


「青物屋というと、あのひょろっと背の高い…」


「さようでございます。今はもう、すっかり太りまして、昔の面影はございませんが。最近は暑がりになったとかで・・・・」


「わかった。今までみさ緒は、青物屋とは?」

 婆やの話をさえぎるように琢磨が聞いた。


「初めて顔を合わせたと思います」

 琢磨は、ありがとう、行っていいよと婆やにげて考え続けた。婆やの話の中に、みさ緒の異変の原因があるとしたら…青物屋か?


 だが、当の青物屋は昔から屋敷に出入りしている男であやしいところはない。何か刺激のある薬をかれたとか、何かを仕掛けられた様子もない。

 第一、見知らぬものが屋敷に入り込めば、使用人の誰かが気付くはずで、そういった形跡けいせきはなかった。


 …もしかしたら、みさ緒は何かを思い出したのだろうか?

 エドワードさんの話では、急に記憶がよみがえることがあるという。そのときはみさ緒に何が起きるかわからないとも言われていた。

 ただ、下手へたにみさ緒に聞くことはできない。迂闊うかつなことをしてみさ緒を刺激することは何としてもけたい。


 答えがでないまま顔を上げると、巴が心配そうな顔をして琢磨を見つめていた。


「伯父様…みさ緒は大丈夫でしょうか…」

「まぁ、今日はもう落ち着いているようだから大丈夫だろう…。だが、何が原因かわからないうちは心配だ」


 巴は小さくため息をつくと

「本当に…。見ている方も辛くなりますわ…。可哀そうなみさ緒…胸が痛みます。いえ、一番つらい思いをしているのはみさ緒ですわね」


 巴の言うとおりだった。





 琢磨の部屋に婆やがお茶をはこんで来た。だが、お茶を出した後も、婆やは何となくぐずぐずしている。何か言いたげな様子だ。


「どうした? 何か話があるのなら言ってごらん、聞くよ」

 琢磨がうながしても、まだ、ためらっている。


 辛抱しんぼう強く待っていると、婆やはようやく話し始めた。

「あの…こんなこと申し上げるのはいかがなものか、とは存じますんですが…」

「うん」


「その…みさ緒様が辰治さんを随分と頼りにしておられるご様子でございまして…」

「まぁ、そうだろうな。何しろ恩人だ」


「いえ…あ、はい。そうなんだと思いますんですが…」

「どうした? どうも歯切れが悪いな」

 そう琢磨に言われて、決心がついたかのように話を始めた。


「先ほど、辰治さんがみさ緒様を部屋までお運びくださったんですが…」

「うん、そうだったな」


「その…辰治さんが帰ろうとなさっても、みさ緒様は辰治さんの着物の袖を握りしめたままお離しにならず、そばを離れないで欲しいというようなことを繰り返しおっしゃられて…。辰治さんも、後は医者に任せるのがいい、と何度かさとすように言われて、ようやく辰治さんが解放された、ということでしたんです。ご病気のせいに違いない、と思うのでございますが、みさ緒様の辰治さんへの執着しゅうちゃくぶりが、その…しているといいますか…それが心配で…」


 話し終えた後も、婆やの顔には、たしてこんなことを琢磨に話してしまってよかったのだろうか、という後悔が見える。


「そうか…ありがとう。よく話してくれた。これからもみさ緒のことをよくてやって欲しい。頼む」

 安心させるようにそう言うと、婆やはほっとした顔をして部屋を出て行った。


 婆やがいなくなってから、琢磨はむずかしい顔になっていた。

 実は、さっき巴も帰りぎわに似たようなことを言っていたのだ。


「伯父様…。みさ緒は随分と辰治さんを頼りにしているように見えますわ。あの…差し出がましいことを申し上げますが、辰治さんを…あまりみさ緒に近づけない方がよろしいのでは?…。いえ、お人柄ひとがら云々うんぬんではありませんの。私、みさ緒の様子が何だか心配で…。知り合って間もないのに何故そこまで…と思ってしまいますの…。本当ならあの役目は恭兄さまのはずですわ…」


 巴の話を聞いた時には、若い娘特有の気の回し方だ、と軽く考えていた。

 だが、婆やからも同じことを聞かされて、考え直さなければならなくなった。


 まさか、みさ緒が辰治を? いくらなんでも…と、やはり思う。


 まずは、みさ緒の発作ほっさの原因をはっきりさせることが先だが、懸念けねんがまた一つ増えた。

 何にせよ、辰治の方の話は恭一朗の耳には入れてはならん、と琢磨は思った。

 これ以上、恭一朗が苦しむのを見たくはなかった。




 その頃、巴は奥村組と大きく書かれた看板がかかった建物の前に立っていた。

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