第37話

 ぼんやりと窓の外をながめながら、つい、ため息が出た。

 青い空を白い雲が次々と流れていく…庭に出れば、さわやかな日に違いないが、そんな気持ちにはなれない…みさ緒は鬱々うつうつとした気分の中にいた。


 何か具体的な心配事があるわけではない。それなのに、心の中にどんよりと灰色の雲が広がっていて、みさ緒を重苦しい気分にさせていた。

 頭の中に薄くもやがかかっていると感じるときもあって、そんなときは、何をする気にもなれず、ただぽかんとしていることが多くなった。



 横浜の屋敷にいることには何の不満もない。むしろ、何もかもが新鮮で退屈することはなかった。

 琢磨は優しいし、婆やは何くれとなく世話を焼いてくれて、不自由を感じることもない。


 ただ、自分がどうやって横浜まで来たのか、どうしても思い出せないことが不思議だった。それどころか何しに横浜まで来たのかさえ、はっきりしない。伯父の琢磨を訪ねてきたのだろうと想像はつくが、何の用事だったかがわからない。


 どこに行っていいのかわからず不安な気持ちで暗い道にたたずんでいたことは、はっきりと覚えている。その時、手を差し伸べてくれた人がいたことも、ぼんやりと記憶にある。奥村組の辰治という人だったことはあとで知った。

 どうやら、その後は疲れと空腹で眠ってしまったらしく全く覚えていない。

 次に目覚めたときは朝になっていて、琢磨の屋敷にいた。


 自分のことなのになぜこうも思い出せないのか…、そのモヤモヤが鬱々うつうつとした気分の原因なのかもしれないと考えるしかなかった。





「みさ緒の様子はどうだ? 落ち着いているか?」


 琢磨は世話をしている婆やに尋ねた。


「はい、落ち着いておられます。大分お元気になられて、何か手伝うことはないかとおっしゃって、お勝手をのぞきに来られることもございます」


 そう言った後、婆やは少し顔をくもらせて続けた。


「ですが…気分に波がおありのようでして…。ぼんやりとしたご様子で一時間も二時間もじっとそのままいらっしゃる時がおありです。そういうご様子の後は大概たいがい、頭痛を起こされたり、眠いとおっしゃられたりで、やはり、どこか本調子ほんちょうしとはいかないようでございます。お眠りの最中にも、苦しそうな表情をしておられるときもあって、心配になるのですが、目覚めると、まぁケロッとなさっていて…何にもおっしゃいませんです」


「…そうか」

 みさ緒をよろしく頼む、と婆やに声をかけながら琢磨は暗い表情になっていた。








 奥村組の宿舎では、辰治と若い男が顔を寄せてひそひそと熱心に話し込んでいた。だが、勝五郎が近付いて来るのに気付くと、二人はついと離れて、若い男の方は知らん顔して向こうへと歩いて行く。


「おい、辰治。お前、松を使って何やらさぐっているそうじゃねぇか」


「・・・」


「わかってんだよ。このところ松の野郎が外国船の船員の周りをちょろちょろしてるってのが、ちゃぁんと耳に入ってきてる」


 辰治は、何の話かわからない、という顔をしている。

 このまま黙ってやり過ごそうとしているのは明らかだった。


「辰、いい加減にしとけよ。お前、みさ緒お嬢さんの一件で、逃がすのに手引きした奴がいるんじゃねぇかっていう、あれを探ってんだろ?」


 勝五郎は、小言こごとをいう時には、決まって「辰」と呼ぶ。


 辰治は下を向いて含み笑いすると、勝五郎を見て言った。


「…俺がみさ緒お嬢さんを助けたとき、経緯いきさつを聞いて、すぐに羽衣楼はごろもろうに探りを入れていたのは、どなたさんでしたっけねぇ。親分の方こそ、一件のからくりを知りたがっていると思ってましたがね」


 勝五郎は舌打ちすると、しょうがねえ野郎だ、と言って苦笑いした。


「冴島の旦那の迷惑にならないようにしろよ」


 それだけ言うと背中を向けて歩き出した。が、二、三歩行ったところで急に辰治の方に向き直ると

「何かわかったらちゃんと俺に報告しろよ。勝手な真似するんじゃねぇぞ」


 ドスのきいた声でそう付け加えた。





 みさ緒は朝から気分がよかった。今日は、巴が来る日だ。

 巴は近頃、頻繁ひんぱんに顔を出すようになった。

 

 かつてみさ緒は、お嬢様然じょうさまぜんとした巴があまりにもまぶしくて、気後きおくれしていた。

 生まれ育った環境というか、階級の違い…みたいな垣根があるのを感じていた。それもあって親しく話をすることもなかったが、今は違う。

 きっかけは、みさ緒がつい口をすべらせて、どうやって横浜に来たのか思い出せないのが気になってならない、と巴の前で言ったことだった。


 巴は、くすくすと笑うと言った。

「みさ緒ったら、そんなことを気にしていたの? 私だって、よくあることだわ。気にむようなことじゃなくてよ。そう思わない?」


 一つ年上の巴が明るく笑い飛ばしたことで、気が楽になった。

 

 それ以来、巴に対する近寄りがたさは薄れて、巴が来るのを心待ちにするようになった。年頃の娘同士、一緒に話をするのが楽しい。


 そういえば、胸がチクンとしたのも、巴がきよと一緒に来たあの日だけだった。

 巴から感じていたいどむような視線が消えたせいかもしれない。



(そうだ、巴さんの好きなお菓子がちゃんとあるか確認しよう)

 急に思いついて、みさ緒はお勝手に顔を出すと婆やに声をかけた。


 婆やは、出入でいりの青物屋あおものやを相手に何やら指図さしずをしている最中さいちゅうだったが、みさ緒の声に二人共が振り返った。

 

 そのとき、突然みさ緒に異変が起きた。


 驚いた婆やが金切かなきり声を上げた。


「みさ緒様っ!」


 あわてて駆け寄ると大きな声で呼びかけている。


「みさ緒様っ! どうなさいました? みさ緒様っ! ちょっと、誰かっ!」


 みさ緒は顔面蒼白がんめんそうはくで、しゃがみ込んでしまっていた。苦しそうな様子ではぁはぁと肩で大きく息をしている。


 尋常じんじょうならぬ婆やの声にびっくりして他の使用人も集まってきた。


 早く旦那様にお知らせを、と慌てている。

 

 すると琢磨の部屋から辰治が現れた。ちょうど勝五郎の遣いで屋敷を訪れていたところだった。

 床に手をついて苦しそうにしているみさ緒に辰治が近付いた、その時、


「あなた、何なさるつもり! みさ緒から離れなさい!」


 大声で𠮟しかりつける声がして、巴がみさ緒と辰治の間に割ってはいった。

 みさ緒を守るように立ちはだかっている。


 思いがけない巴の行動に、まわりにいた者は皆、固まってしまった。

 

 奥村組の辰治と言えば、鬼、と言われるほどの腕っぷしの強さで、このあたりで喧嘩を売ろうという者はいない。

 しかも勝五郎の右腕としても、一目も二目も置かれている存在だ。


「あ、あの、巴様、この方は…」

 

 婆やが慌てて説明しようとする前に


「ちょっとどいてくれ。あんた、邪魔じゃまだ」


 巴の言葉を無視して辰治は巴を押しのけると、大丈夫ですかと言いながら、みさ緒を抱き上げた。みさ緒の手は辰治の着物のそでをぎゅっと握りしめている。


「…お嬢さんの部屋は…」

 辰治に尋ねられて婆やは二階へと案内している。


 呆然と見送っている巴に、琢磨が後ろから声をかけた。


「巴、せっかく来てくれたのにすまない。みさ緒がこんな風になるのは初めてのことで、私たちも驚いている…」


「…いいえ、伯父様、ちょうどこちらに着いたところで、中から助けを呼ぶ大きな声が聞こえたものですから…私、てっきりみさ緒が襲われたのかと…。でも、よろしいんですの? あんな無頼ぶらいな様子の男にみさ緒をまかせて…」


「あぁ、大丈夫だ。しっかりした男だよ。奥村組の辰治といってみさ緒の恩人だ。この間、話しただろう? 辰治のおかげでみさ緒はこの屋敷に戻って来ることができた」


「まぁ…そうでしたの。奥村組の辰治…さん。私、とても失礼なことを…」

 

「だが、一体何があったというんだ?」

 婆やに問いたださねばならない、こういうことが続けば、みさ緒は本当に壊れてしまう…琢磨はそのことが心配だった。




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