第36話

「きよさん!」


「みさ緒様、お着換えをお持ちしましたよ」


 東京の冴島家から女中頭じょちゅうがしらのきよが来た。


「すみません…私ったら何も持って来ていなくて…」


「よろしいんですよ。旦那様から聞いております。みさ緒様がすぐに帰ってしまうと屋敷の中が寂しくなるから、しばらくいてもらうことにした、とおっしゃっておいででした。でも、みさ緒様、寂しいのは屋敷の中じゃなくて旦那様ですよ」


 そう言うと、きよはけらけらと明るく笑った。みさ緒もつられたようにくすくす笑い出した。


「今日は巴様もいらしたんですよ。あら? 巴様はどちらに…今の今までご一緒でしたのに…」



 すると、きよの声が聞こえたかのように巴が庭の方から歩いて来た。


「ここは海が近いからいその香りがするわね。見晴らしが良くて、いつ来ても気持ちがいいこと…。みさ緒、ごきげんよう」


「巴さん…その…ごきげんよう」


(…?)

 巴を迎えたとき…なぜかみさ緒の胸は一瞬チクンとして、重苦しくて切ない不思議な心持ちがした。



「みさ緒様、旦那様にご挨拶して参ります」


 きよはそう言うと、巴をうながして琢磨の部屋に向かった。


(あぁ、よかった…覚えていてくださった)

 きよは、ほっとしていた。


 恭一朗から、みさ緒の病状について説明を受けていた。


 そのとき、自分のことは全く覚えていないのだと言った恭一朗の寂しそうな顔が忘れられない。


 それもあって、今日はやや緊張しながらみさ緒に会うことになったのだが、自分にも巴にも今までと何も変わらない態度だった。

「ごきげんよう」が相変わらずたどたどしいのも、いつもの通りだ。





伯父おじ様、お久しぶりです。いきなり来てしまってごめんなさい」


「いや、よく来たね。久しぶりだ。元気そうじゃないか」


 琢磨はそう言いながら、ちらときよを見た。なぜ巴が来たのだ、と言いたげな目をしている。


 みさ緒の今の状況を知る者は、ごく内輪うちわとどめておきたい。

 例え従姉同士であっても、みさ緒をさらすようなことは避けたい、というのが琢磨の本音だった。


「旦那様、みさ緒様のお着換えをお持ちしました。ちょうどこちらへ出かけようとしておりましたら巴様がお見えになられて…」


 きよも琢磨の気持ちは充分に理解している。だから、巴をともなって横浜に来てしまったのは出合いがしらのようなことで避けられなかったのだ、と少し言い訳めいた挨拶になった。


「伯父様、久しぶりにお屋敷を訪ねたら、恭兄さまはお仕事で出かけたって言うし、みさ緒は横浜の伯父様のお屋敷に行っているって聞いて…。それで、きよさんについて来ましたの。伯父様にもお会いしたかったからちょうどいい機会だと思って…」


 琢磨はうなずくと、少し話があるからと、巴だけ部屋に残るように言った。




 驚いて大きく見開みひらかれた巴の瞳から涙が溢れてきた。流れる涙をぬぐうことも忘れて、琢磨の話をじっと聞いている。


「…それじゃ、みさ緒は恭兄さまのことさえも忘れて…」


「あぁ、そうだ…。つらい出来事を経験したことと恭一朗とがみさ緒の記憶から、すっかり抜け落ちてしまっている。無かったことになっているんだよ。今のみさ緒は恭一朗に無関心だ。婆やが何度教えても恭一朗のことはうわそららしい…。これといった治療法もないということだから、私たちも見守るしかないんだよ」


「そんな…」


 巴は手で顔をおおうと、子供のようにしゃくりあげて泣いている。


 ようやく顔を上げた後も、巴はまだ泣き顔をしていた。


「巴…みさ緒の力になってやってくれないか…。いや、今は見守ることしかできないのだが、この屋敷の者だけでは気が回らないこともあるかもしれん。巴はみさ緒とは年も近い。どうか頼む」



「伯父様…。話して…くださって…ありがとうございます。みさ緒がそんなひどい目に合っていたなんて…あまりにも辛くて…悲しくて…。私にできることは、何でもいたします」


 巴はお嬢様育ちで、鼻っ柱は強いし、はきはきとした物言ものいいの怖いもの知らずではあるが、そこは育ちの良さで真っすぐな気性きしょうの心優しい娘だった。

 その人柄を信じて、琢磨はみさ緒に起きた酷いこと、そして今、起きていることを話すことにしたのだった。


 みさ緒のためになることは、何でもしてやりたい。そしてそれは…みさ緒を愛するがゆえに苦しんでいる恭一朗のためでもあった。






(あ、恭兄さま?)


 恭一朗の姿が目に入って、巴は立ち止まった。


 巴は、目を泣きらした自分を見て、みさ緒が不審ふしんに思うからと帰ることにしたのだった。


 部屋の窓から外を見ている恭一朗の視線の先には、きよと楽しそうに話すみさ緒の姿があった。


(今の恭兄さまは、こんな形でみさ緒を見守ることしか…)


 さっき琢磨から恭一朗のつらい立場を聞いたばかりだ。



(…え?)

 恭兄さま…もしかして涙?


 そっと近づいてみると、静かにみさ緒を見つめているその横顔には苦悩くのうの色がく浮かんでいる。


 今まで見たことのない恭一朗の姿だった。いつも颯爽さっそうとしていて、おだやかに微笑ほほえんでいる恭一朗しか知らない。

 みさ緒のためにそばについていてやりたいのに、それがかなわない…みさ緒のために何ができるのか…思い悩む恭一朗の苦しい胸の内が痛いほど伝わってくる。





(やっぱり…恭兄さまが愛しているのは…みさ緒なんですね…)

 巴は、はっきりとさとった。


 知りたくないのに…わかってしまうのが悲しい…。

 子供の頃から、ずっと恭一朗だけを見てきた…ただひたすらに好きだった人…。


(恭兄さまのお嫁さんになるのは私…)

 そう公言こうげんして運命の相手だと信じていた…のに…。



 夢がシャボン玉のようにはかなく消えて、たまらなく淋しい。


 巴の目に、また新しい涙が溢れてきた。


 だが、不思議と恭一朗を奪われたという気持ちは湧いてこない。

 そんな自分に、なぜかほっとしていた。


 明日はきっといつもの私に戻るから…今日だけは泣き虫で弱虫の情けない巴でいさせて…そう思いながら泣き続けていた。





「きよさん、巴さんはどうしたんでしょう…。遅いですねぇ」


「あら、本当に。旦那様とお話がはずんでいらっしゃるのかもしれませんですね」

 きよも気になっていた。琢磨が巴に果たしてどんな話をしているのだろうかと思う。


「ねぇ…きよさん……実は…ね、さっき巴さんとお会いした時、なんかこう…胸がチクンと痛いような、ちょっとだけ悲しいような不思議な気持ちになりました。どうしたんだろうって、気になっていたんですけど…。風邪引いたのかしら?」


「あらあら、みさ緒様。お熱が出るといけません。もう中に入りましょう」



(みさ緒様?……もしかしたら…)

 みさ緒の心の奥底には、今も恭一朗への想いがあるのではないか、ときよは感じた。


 こんなことになる前、みさ緒が恭一朗と巴の二人を見ては、ため息をついていたのをきよは知っている。

 みさ緒は、恭一朗には巴がいて自分の想いは到底叶わない、と淋しそうにしていたのだ。


 そんな気持ちが今もあるとしたら…巴の姿に切ない気持ちになるではないだろうか…。

 今のみさ緒にはわからなくても、心はちゃんと覚えているということではないかしら…。



 恭一朗様…みさ緒様…

 

 お二人ともこれだけ想い合っていながら、どうしてこんなことになっているのかと、きよはやり切れない思いだった。


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