第35話
(みさ緒…)
みさ緒の中に私はもう…いないのか…
今のみさ緒は、婆やに恭一朗のことを聞かされてもどこか
みさ緒が婆やに付き添われて庭に出ていこうとしているのが見える。
恭一朗はエドワード医師との会話を思い出していた。
「みさ緒はどうやら…記憶の一部分を失っているようです」
「記憶の一部を…」
恭一朗が独り言のように繰り返した。
「みさ緒はどこかに丸二日閉じ込められていたらしいということでしたね? だが、みさ緒にその記憶はない。友人の家の帰りに、気が付くと横浜にいて、迷子になってしまったのだとそれだけ話してくれました」
「頭のどこかに傷があるとか、ひどく頭を打ったとかそういうことが原因ではないのですか? 記憶を失くすなんてそんなことが…」
琢磨が信じられないというように言った。
「冴島さん、みさ緒に傷はありませんでした」
「では、なぜ?…」
「今、みさ緒に起きていることは、みさ緒自身を守るため、と考えていいでしょう」
「みさ緒自身を守るため…とは?」
「つらい言い方になりますが…閉じ込められていた間にみさ緒の身に起きたことは、耐え
「みさ緒は…みさ緒は元通りになるのでしょうか? 薬とか何か治療方法はないのですか?…」
恭一朗は悲痛な
「…今のところは薬も、外科的治療方法もないと思います…。みさ緒の今の状況がいつまで続くのかすらわかりません」
「…一生このままかもしれないということですか? そんな…」
「恭一朗さん…あなたのつらい気持ち、わかります。私もつらい…。今、私たちに出来ることは、みさ緒に寄り添って支えることです。みさ緒は深く傷ついています」
そうですか…と頷くと琢磨はちらと恭一朗を見て続けた。
「みさ緒は…私のこともあなたのことも覚えていました。その…恭一朗のことは…なぜ…」
エドワード医師は目を伏せて少しの間沈黙すると、言葉を選ぶようにして言った。
「…みさ緒の心の内はわかりませんが…その耐え
少し言葉を切ると、続けた。
「それに…すべてを思い出すことがみさ緒の幸せにつながるのかどうか…」
しばらくは毎日様子を見に来るからと言って、エドワード医師は帰って行った。
今日は
エドワード医師からは、みさ緒の負担にならない程度に日光浴させるようにと言われている。
自分に起きた恐ろしい出来事をすべて忘れて、その自覚さえないみさ緒が、
(みさ緒…)
私に助けを求めていたのだろう?
どれだけ叫んでも届かない暗闇に…ただ一人…そんな気持ちだったのだろう…
みさ緒がそれほど苦しんでいるときに、私は何もできなかった…
何が、「みさ緒を守る」だ…情けない…
私を信じていただろうに…
みさ緒…
私のことを記憶から消し去ることでみさ緒の心が安らかなら…
私は…
「恭一朗…」
呼びかけられて気付くと、琢磨がそっとタオルを差し出していた。
「え…?」
恭一朗はいつの間にか涙を流していたのだった…。
「あ、あぁ…すみません…」
「…
みさ緒の姿を眺めながら琢磨がぽつりと言った。
「…はい」
二人とも口にはしないが、みさ緒に起きた「耐え
「私がもう少し早くみさ緒を見つけることができていれば…。いえ、もっとみさ緒の行動に気を
「恭一朗…」
「すみません…。こんな情けない姿をお見せして…」
「…恭一朗…そんなことを言うな…。
「・・・」
「おかしなことに思えるが、辛いことを忘れてしまって、みさ緒は今、
「父さん…」
「みさ緒は当分、
恭一朗は黙って
勝五郎と辰治の二人はむっつりと黙ったまま並んで歩いていた。
琢磨の屋敷から奥村組の宿舎への帰り道だ。
「…なぁ辰治、実際どうだったんだ? お前がみさ緒お嬢さんに道で
勝五郎が聞いた。
辰治はチラリと勝五郎を見て黙っている。
勝五郎は辰治の返事を待たずに続けた。
「道に迷ったなんて話じゃなかっただろ?」
「……話した通りですよ…
「そうか…」
後は二人とも難しい顔をしたまま黙って歩いた。途中ですれ違う何人もの男たちがぺこりと頭を下げていく。
勝五郎が思いついたように辰治に
「辰よ…気の毒には違いないが、お嬢さんには琢磨の旦那も若旦那もついていなさる。お千代坊のときとは事情が違うんだってことをわきまえておけよ。余計なことをするんじゃないぞ」
辰治は返事をせず、
勝五郎は短くため息をつくと
「わかったな」
と念押しした。
七年前…
辰治は妹を守るために、ある男を
そのとき、ことの経緯を知って辰治が重い罪にならないよう
それが縁となって辰治は勝五郎の奥村組に身を寄せることになったのだが、そうやって救い出した妹は…ほどなくして自ら命を
辰治は男泣きに泣いて、
勝五郎が口にしたお千代坊とは、辰治の妹のことだ。
わざわざ勝五郎が辰治に念押ししたのには理由がある。
千代が落ちた泥沼とみさ緒の身に降りかかった
千代を亡くした当時の辰治の荒れ
(…どうやら…取り越し苦労ってことでもなさそうだ)
ご意見無用とでも言うような
辰治の胸の内には、千代を亡くした当時の無念の思いが
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