第34話

「恭一朗」

「・・・」

「恭一朗…」


 恭一朗は、目を閉じて大きく息をしている。両手のこぶしは指のふしが白くなるほど強く握りしめられていた。今にも爆発しそうな怒りを何とかおさえようとしているのだろう。


 恭一朗は子供の頃からどんなときも冷静で、我が子ながら大したものだと感心する反面、あまりにも抑制が過ぎて心配したほどだった。それが今、目の前の恭一朗は激しい怒りを隠しきれないでいる。



「私が村へみさ緒を迎えに行ったあの日…あの男は…あいつはみさ緒を犯そうと抑え込んでいたんですよ。ひどいもんです…みさ緒は着物も乱れて失神しっしん寸前でした。もう少し着くのが遅れていたら、みさ緒はあのけだものの犠牲になっていました」


「お前に容赦なく叩きのめされて、それで終わったと思っていたんだが…。まさかこれほどまでにみさ緒に執着していたとはな…」


「私も、あの男がもう二度とみさ緒に近づくことはないだろうと思っていましたが…」


「私たちの読みが甘かった、ということだな」


「…油断でした。ですが、みさ緒をこんな目に合わされて、このまま黙って終わらせるわけにはいきません。あの男のことは絶対に許さない…」


「明日、奥村組の勝五郎と辰治がここに来てくれることになっている。詳しく話を聞かせてもらおう。とにかく今日はもう寝なさい。恭一朗、お前もかなり疲れた顔をしているよ」





 坊主頭はニタリと笑うとみさ緒の体をなぶり始めた。


(いや…やめて…助けて…恭一朗さま…助けて…)


 遠くにぼんやりと恭一朗の姿が見える…。


(恭一朗さま…)


 必死に恭一朗の方へ行こうとするのに、どうしても体が動かない…声すらも出ない…。


(待って…)


 かかえ込まれて動けないみさ緒の白い肌の上を坊主頭の唇がい回る。


(いや…やめて…恭一朗さま…もう二度と会えな…)


 …突然、足元あしもとがぐらりと崩れて、みさ緒は暗い闇の中へ吸い込まれるように落ちて行った…





 エドワード医師の診察が終わり、琢磨と恭一朗が部屋に入ると、みさ緒がベッドに腰かけていた。


 琢磨はつとめて明るい口調で声をかけた。


「みさ緒、気分はどうだ?」


「あ、伯父おじ様。おはようございます。元気です。何だかとてもお腹がきました」


 みさ緒はそう言って皆を笑わせた。ほっとした空気がただよっている。


 生きて動いているみさ緒が目の前にいる、今はただそれだけで恭一朗の心に喜びがあふれた。


 みさ緒がたまらなくいとおしい。


(我ながら…)

 これほどまでにみさ緒にとらわれているとは…恭一朗は心の中で苦笑した。


「みさ緒…本当によかった。今、婆やが食事の準備をしてくれているからたくさん食べるといい」


 恭一朗は穏やかに言った。


「…はい。あの…ありがとうございます」


 みさ緒はそれだけ言うとうつむいてしまった。


(おや…?)


 みさ緒の態度にかすかな違和感を覚えはしたが、つらい出来事を経験した後だから不安定なのも仕方がないと、そのときはそう納得していた。


 みさ緒はそれきり何もしゃべらず、静かになってしまったその場を救うように、エドワード医師が言った。


「さ、出ましょう。みさ緒が疲れるといけない。それにご飯を食べないとね」


 みんながぞろぞろと部屋を出る。


 恭一朗が振り返ると、みさ緒はぼんやりとした顔で部屋を出ていく三人を見送っていた。





「勝五郎、辰治。みさ緒が大変世話になった。このとおり礼を言う」


 琢磨がそう言って頭を下げると、奥村組の親分、勝五郎はとんでもないと、慌てて言った。


「冴島の旦那、頭をお上げください。旦那にそんなことをされちゃ、こちらが困ります」


 横浜港で荷捌請負にさばきうけおい生業なりわいとする奥村勝五郎は、堂々たる体格の大男で押し出しもいい。

 荷捌請負は港湾こうわんの荷物の運搬などを請負うのが主な仕事で、横浜港の貿易量の増加に対応するために大勢の労働者をかかえていた。

 力仕事だけに荒くれ者も多く、それだけに、上に立つ者は胆力たんりょくも必要とされた。

 少し前までは請負業者の中に博徒ばくと兼業けんぎょうしている者もいたという世界だ。


 勝五郎とて、今は堅気かたぎだが修羅場しゅらばをくぐり抜けてきた過去もある。



「いや、辰治が機転をかせてみさ緒を保護してくれなかったら、どんなことになっていたか…。礼を言うのは当然だ」


「旦那、奥村組うちの辰治は当たり前のことをしたまでのことで…」


 その辰治は、勝五郎のうしろできっちり膝を揃えて座っている。


「勝五郎、昨日の話を恭一朗にも聞かせてやってくれるか」


 勝五郎は、お前からお話ししろというように辰治を振り返った。


「お嬢さんが立っていたあたりは、暗くなってから若い娘が出歩くなんてことはまず無い場所なんで…。

 それでみょうに思って、俺と一緒にいた奥村組うちの若いのが声をかけたんですが、お嬢さんは何かにおびえている様子でした。しかも体も弱っていてフラついているような状態で…。

 何とか名前を聞いたら、こちらのお嬢さんだとわかったんですが、近くでは羽衣楼はごろもろうの若い泡食あわくった様子で誰かを探し回っていました。かなりの人数だったと思います。

 連中れんちゅう血眼ちまなこになって探していたのは、みさ緒お嬢さんだと思います」


 そう話す辰治の言葉に、勝五郎が付け加えた。


「辰治からその話を聞いて、少し探りを入れてみたんですが、あの娘を連れ戻して来いと羽衣楼のあるじ物凄ものすご剣幕けんまくで怒鳴り散らして、それはもう大変だったようで…。若い衆がみんな震え上がっていたそうです」


 すると、恭一朗が疑問を口にした。


「みさ緒が羽衣楼から逃げたことは間違いないと思います。ですが、みさ緒は、わなに掛けられて横浜の羽衣楼まで連れて来られたんです。いきなりほうり込まれて、自分がどこにいるのかさえわからなかっただろうと思うのに、一体どうやって…」


 勝五郎にうながされて、辰治が再び話し始めた。


「実は、お嬢さんに声をかけたとき、お嬢さんは羽衣楼に続く道の方をじっと見ていました。まるで誰かを見送っているような感じで…。姿は見えませんでしたが…」


 ちょっとよろしいですかと断ると、勝五郎が身を乗り出した。


「それについちゃ、ちょっと面白い話を聞き込みました。いや、面白いなんて言うと不謹慎ふきんしんですが、お嬢さんを見つけたあの日、羽衣楼でちょっとした騒動があったようで…」


「騒動?」

 琢磨が聞き返した。


「外国船の船員が大勢で騒ぎを起こしたらしいんです。船員の中の一人が中心になって、店のど真ん中で何人もの大男が腕組みしてとおせんぼした上に、外国の言葉で大声でわめらしたってことです。言葉はわからないし何しろうるさくてしょうがない。あるじから何から店中みせじゅうがその連中に掛かりきりになったそうで…」


「…うん」

 琢磨が聞き入っている。


「まだ続きがありましてね。みんなが手を焼いていたその騒ぎが、突然終わったと。わめいていた船員たちが何事もなかったように急に静かになって、いつものように客として店に上がったという話で…。あの娘を連れ戻して来いとあるじ激高げきこうしたのは、その直後のことらしい。…旦那、どう思われます?」


「…みさ緒を逃がすために騒動を起こしたと、そういう絵をいた者がいると、そういうことか…」


「旦那のおっしゃる通りかと…」



 するとそこへ、婆やに付き添われてみさ緒が降りて来た。

 助けてくれた人が来ているのなら、是非お礼が言いたいと言っているらしい。


 琢磨から、改めて勝五郎と辰治を紹介されたみさ緒は、深々と頭を下げて礼を言った。


「あの…辰治さん、本当にお世話になりました。横浜まで来たものの、すっかり道に迷って途方とほうに暮れていたところでした。本当に助かりました。ありがとうございました」


 そのとき…その場にいた誰もが何となくに落ちないものを感じていた。

 若い娘のことだから、肝心なところはうやむやにしておきたいのだろうと考えてみても、何かがおかしい。


 迷子になっていたのだとはっきり言い切るみさ緒が奇妙きみょううつった。



 そして…決定的だったのは婆やの言葉だった。


「…みさ緒様は坊ちゃんのことを覚えていらっしゃらないようなんです。さっき皆様がお部屋にいらした後、みさ緒様が坊ちゃんのことを、あの方はどなたかとおっしゃって…」

 そう言うと目頭めがしらを押さえた。



 みさ緒に異変が起きていた。

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