第33話

「よぉ、ねえちゃん。こんなところで何してんだ」

 いきなり声をかけられて、みさ緒は驚いて振り向いた。

 羽衣楼に戻って行くりよに気を取られていて、無防備むぼうびになっていた。


 暗がりに二人の男が立っている。着流しの背の高い男ともう一人はそれより若いようだ。二人とも堅気かたぎの人間ではないように見えた。


(羽衣楼の…? もう、見つかった?)

 みさ緒は思わずあとずさりした。


「なんだよ、人が親切に声をかけてやったのに怖がることはないだろう?」

 

 若い方が近寄って来ると、みさ緒をじろじろと眺めた。

「へぇ…あんた、大した別嬪べっぴんだな…。あんたみたいな別嬪べっぴんがひとりでウロウロしてちゃ、余計に物騒ぶっそうだ。行くところがあるんだろ? 送って行ってやるぜ」

 そう言って、ぐいっとみさ緒の腕を掴んだ。


「あ…」

 みさ緒は体がすくんで声を出すこともできなかった。


 あの場所からようやくのがた、と思ったのに、また連れ戻されて男たちのなぐさみ者にされる…恐怖に襲われていた。


(…りよさん…せっかく助けてもらったのに…)


 必死に気を張って何とかここまで逃げてきた。

 りよと一緒だったからこそ耐えられたのに、今はひとりきり…。

 張りつめていた糸が切れた。


 すぅっと血のが引いて、みさ緒は膝から崩れ落ちた。片腕は若い男につかまれたままだ。


「おっと…。おい、ねえちゃん。なんだ、どうしたってんだよ。送ってやろうかって言っただけじゃねぇか」


 別に悪さしたつもりはないのに、倒れかかってきたみさ緒の態度が不満で若い方は口をとがらせた。


「…そう言うな。お前が急に腕をつかんだりするから驚いたんだろう」

 背の高い着流しの男が初めて口を開いた。


 だが、急に黙ると若い方に目配めくばせをした。バタバタと足音を立てて大勢が近くを走り回っている。誰かを探しているようだった。


「兄貴…羽衣楼の若いですよ」


 着流しの男は黙ってみさ緒を抱き上げると、人目をけるようにすっと横道よこみちに入った。若い方もそれに続く。


「あいつらが探してるのは、この娘ですかね?」

「さぁな…」


 腕の中のみさ緒は小刻こきざみに震えていた。小さい声でしきりに何かを訴えている。


「お願い…連れて行かないで…もういや…やめて…」


 何かにおびえている様子のみさ緒の顔をじっと見ていた着流しの男がみさ緒に話しかけた。


「あんた、名前は? 言えるか?」

「…さ緒」

「え? 何だって?」

「さえ…じま…み…さ緒」

「さえじま? あんた、冴島って言ったのか?」






 みさ緒が行方不明になってから二回目の夜がけようとしていた。

 恭一朗は一睡もしていない。

 何の手がかりもない中、焦りと不安ばかりが大きくなっていた。



「恭一朗さま! 旦那様からお電話が…」

 きよが、支配人室にいる恭一朗のもとに駆け込んで来た。



「みさ緒が見つかった…。今、父さんのところにいるそうだ」


 電話が終わってそれだけ言うと、恭一朗は目をじて大きく息を吐いた。


 どれほど追い詰められていたか…別人べつじんのように面変おもがわりしてしまった恭一朗を見て、きよは、すぐには言葉が出なかった。



「それで……みさ緒様はご無事で?」

「うん。無事だそうだ」


 よかった…とつぶやくと、きよはその場に座り込んで静かに泣き始めた。

 きよもまた、みさ緒の一番近くで世話をしている者として心配と不安とで押しつぶされそうになっていた。それが今涙となって一気にあふれ出たようだった。


 遅い時間にもかかわらず他の使用人たちも集まって来ていて、よかったと手を取り合っている者たちもいる。暗く沈んでいた屋敷の空気がようやく明るさを取り戻した。


「これから父さんのところに行ってくる」

 恭一朗は小林の運転する車で横浜に向かった。


 横浜に向かう車中で恭一朗はみさ緒のことを考え続けていた。

 無事だとは聞いたが、みさ緒の顔を見るまでは安心できない。

 よく戻って来てくれた…と思う。

 みさ緒を永遠に失うことになっていたらと思うと、今でさえ胸がキリキリと痛む。

 一体誰が、何のためにみさ緒を連れ去ったのか、必ず解き明かさなければならない。

 だが今は、一刻いっこくも早くみさ緒に会いたい、それだけだった。





「父さん、みさ緒は…」

 琢磨の屋敷に着くなり、恭一朗は挨拶もせず尋ねた。


「今、二階で寝ているよ。念のため婆やをつけてある」


「そうですか。ちょっと様子を見てきます」


「あ、恭一朗、待て。今はまだ…」

 やめておいた方がいいと言いかけて、琢磨は途中で止めた。

 今はどんな言葉も恭一朗の耳には入らないだろう。


 恭一朗はもうすでに二階に続く階段を上がっていた。



 部屋に入ると、寝ているみさ緒の姿が目に入った。


 心なしかやつれている。

 胸が締め付けられた。



 恭一朗は、眠ったままのみさ緒に近づくと、その頬にそっと手をあてて心の中で呼びかけていた。


 みさ緒…守ってやれずにすまない…

 そんなにやつれて…

 みさ緒…

 みさ緒がどれほどかけがえのない存在か、思い知らされた

 もう二度と、みさ緒につらい思いをさせないと誓う…




 そして…何よりみさ緒を連れ去った相手を決して許すわけにはいかない。


 まずは、みさ緒が見つかった経緯けいいを琢磨に聞いて手掛かりをつかむことだ。


 付き添っている婆やに後は任せて恭一朗が部屋を出ようとすると、婆やの口からつらいことを聞かされた。


「坊ちゃん…みさ緒様は眠っているのに、涙を流されているんです。お可哀そうに…」



 婆やの言葉に暗澹あんたんたる思いで琢磨の部屋に戻ると、恭一朗はエドワード医師がいることに初めて気付いた。


 彼は、銀座でみさ緒がりよに襲われて大怪我をした時に偶然居合わせて手当てしてくれた人で、それ以来冴島家と交流があった。それで今夜、急遽きゅうきょ往診を頼んだということらしい。

 遅い時間にもかかわらず、病気や怪我は時間も場所も選ばないものだからと気軽に応じてくれた。

 他の誰彼だれかれというより、エドワード医師なら、くどくど説明は要らないし、内部の事情を外に漏らす人ではないとわかっているから、こちらとしては都合がいい。


たところ、みさ緒の体に目立った怪我や傷はありませんでした。安心してください。ただ…」

「ただ?」

「みさ緒の手と足に縛られたような跡が薄く残っていました」

「縛られた跡…」


 恭一朗の顔を一瞬激しい怒りが走った。だが、すぐにいつもの冷静な恭一朗に戻ったように見えた。


「それでは私はこれで。明日、また来ましょう」


 エドワード医師が帰ると、恭一朗は早速琢磨に聞いた。


「父さん、みさ緒はどうやってここに…」


「奥村組の辰治たつじが見つけてくれたんだよ」


「辰治が…。どういうことですか?」


「みさ緒は横浜港近くの道に一人でいたらしい。そこに、たまたま辰治が通りかかって、ちょっとした経緯いきさつでみさ緒の身元みもとが知れて保護してくれたということなんだが…。みさ緒はかなり弱っていてフラフラだったみたいだ。それと…」

 

 琢磨は、少し間を置くとじろりと恭一朗を見て言った。


「辰治は、羽衣楼はごろもろうの若いがみさ緒を探し回っていたようだったと言っていた」


「…すると、みさ緒は羽衣楼から逃げて来たと?」


「おそらく、な」

 恭一朗の顔色が変わった。はたからみてもそれとわかるほどの激しい怒りが恭一朗をおおいつくそうとしていた。

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