第32話

 坊主頭の酒臭い息が顔にかかる…。


 大きな岩に押さえつけられているようで、みさ緒は身動きもできなかった。


(恭一朗さま…助けて…)


 このままこの男に凌辱おかされてしまうのは絶対に嫌…。


 でも、自分にのしかかっている男の体からは、どうやっても逃げることができない。



「なんだ、泣いているのか…。ばかばかしい。店に出ていろんな客の相手をするより、俺一人に抱かれている方が女冥利おんなみょうりってもんだろうが…。そのうち、お前の方から抱いてくれと俺にしがみついてくるようになるさ」

 坊主頭は下卑げびた笑いを浮かべてそう言った。



 みさ緒があらがえばあらがうほど、それがかえって坊主頭の欲情を刺激しているようだった。

 酒で赤くなった坊主頭の顔がますます赤くなっている。


 まるでおびえる獲物えものを追い詰めてなぶもてあそんで、それを楽しんでいるかのようだ。



 自分はもう、この男の餌食えじきになるしかないのだという絶望の中で、みさ緒のまぶたには優しく笑う恭一朗の顔が浮かんでいた。


 …一度でいいから恭一朗さまに、好きだと…みさ緒は私のものだと言ってもらいたかった…嘘でもいいから…恭一朗さま…

 …恭一朗さま…




 坊主頭はいよいよ本気になってみさ緒にいどみかかってきた。

 もうたわむれれの時間は終わりだとばかりに、みさ緒の体を思うさまむさぼろうとしている。


 部屋のすみには、みさ緒の着ていた襦袢じゅばんも坊主頭の着物も一緒くたに放り投げられていた。


 男の手でどうされようと、みさ緒はもう、されるがままになっていた。

 だが、それがますます坊主頭を熱狂くるわせている…。

 

(私は…人形…ひとじゃない…)

 そう思わないと耐えられなかった…。



 坊主頭が低くうなって、今まさに花が散らされようとしていた…その時



「親方…親方…」


 部屋の外から呼びかける声が聞こえた。

 坊主頭は知らん顔をしている。

 だが、呼びかける声はしつこく、止まない。


「なんだ! この部屋には当分近づくなといってあるだろう!」


 不機嫌ふきげんな声で坊主頭が怒鳴りつけると、若い衆が困り果てた様子でこたえた。


「すんません、親方。ですが…客が暴れてるんでどうにも…」


「あん? 客が? たたき出せ!」


「それが…そういうわけにもいかないんで…。騒ぎを起こしているのは外国船の船員で…」


 外国船の船員たちは店にとっては大事な得意客だ。盛大せいだいに金を使って、この羽衣楼はごろもろうを大いにうるおしてくれる。無下むげにはできない。


 坊主頭は舌打ちすると、みさ緒の体から離れて立ち上がった。


「戻ったら、たっぷりと…な。辛抱して少し待ってろ」

 みさ緒にそう言うと、身じまいして若い衆と部屋を出て行った。



 みさ緒は大きく息を吐いた。

 起き上がる気力もない。


 これからはこの店で違う名前を付けられて、毎晩誰かの相手をしながら生きていくしかないのだ。もう二度と恭一朗に会うこともない…。



 うつろな目でちゅうを見ていると、誰かが部屋に入って来た。


 坊主頭が戻って来たのだろう。


(あの狂乱の続き…)

 逃げることもできない…。もうどうにでもなれという気持ちになっていた。


「みさ緒、みさ緒」


 声のぬしは、りよだった。


(えっ…りよさん?)


 りよは素早くみさ緒のそばに来ると


「早くこれを」

 地味な着物を差し出した。


「急いで。ここを出るのよ」

 りよがき立てる。


「りよさん…よかった、無事で」


「…みさ緒……あんたって人はこんな時でも他人ひとの心配を…。とにかく急いで! 話はあとで」


 みさ緒は体がガクガクしてしまって、思うように帯も結べない。


 見かねたりよが手伝っていると、手がみさ緒の腕の大きな傷痕きずあとれた。りよの手が一瞬止まって、小さい声で何かをつぶやいたようだったが、みさ緒には届かなかった。


 それでもどうにか身支度みじたくができると、あたりをうかがいながら二人で部屋を抜け出した。

 

 客の騒動とやらで、表の店の方に出張でばっているのだろう、見張りもいない。


 りよにみちびかれて静かに廊下を進むと、かどを曲がって来た女と鉢合わせしてしまった。

 若い男に婆さんと呼ばれていた女だ。


(あっ…)


 見つかった…。


 婆さんは驚いた顔をしたが、すぐに事態を察したようだった。

 二人をじろりと見ている。


(これで終わり…若い衆が呼ばれる)


 りよもみさ緒も婆さんの前で立ちすくんだ。



 すると…何を思ったか婆さんは二人から目をらすと、早く行けとでも言うように手をひらひらと振った。

 そして、何事もなかったかのように廊下を歩いて行ってしまった。



 二人が婆さんに頭を下げたのがわかったのかわからなかったのか…婆さんがかすかにうなずいたように見えた。



「みさ緒、行こう」

 りよはそう言ってみさ緒の手を引っ張ると小走りになった。


 どうにか店から通りへ出ると、二人とも無言で歩いた。店からかなり離れて、誰も追いかけて来ないようだとわかると、りよが口を開いた。


「みさ緒…ごめんなさい…。怪我けがをさせて…。腕に大きな傷が残ってた…。私、あの店で働くことになるまで、父様とうさまがどんなにひどいことをしていたか何も知らなくて…。本当にごめんなさい…」


「…え? 待って、りよさん…あの店で働いているって…。私と一緒に連れ去りにあったんじゃ…」


「…私、借金を返すためにあの店で働いているの。みさ緒に怪我をさせた頃に埜上じっかの家がつぶれて、羽衣楼はごろもろうぼうずあたまに借金だけが残って、それで借金のかたとして私が…」


「りよさんが借金の…かた…」


 今にも泣き出しそうな顔をしているみさ緒を見て、りよは寂しそうに笑うと言った。


「さ、みさ緒、ここからは一人で行って。この道をまっすぐに行くと横浜の港に出るから。この時間ならまだ人がいる。港で働く日本人の誰かに、冴島家に行きたいと言うと、必ず連れて行ってくれるはずだから」


「え、りよさんも一緒に…」


「ううん、私は戻る。さっき、店で騒ぎが起きたのは偶然じゃない。私のお客が頼みを聞いてくれて、それで騒ぎを…。きっと今も、騒動をうんと大きくして、店のみんなを釘づけにしたまま足留めしていると思う。だから私は、みさ緒と一緒に逃げてしまうわけにはいかない。あの人は、私が戻って来るって信じているはずだから…」


「りよさん…でもどうして?」


「…あやしかったのよ。私にみさ緒のことを根掘ねほ葉掘はほり聞いたり、挙句あげくに私の着物をこっそり持ち出したりして…。何か怖いことをたくらんでいるんじゃないかって心配してた。そしたら、昨日、急に店の中がバタバタして…。それで若い衆にカマかけたら、みさ緒を捕まえたって口をすべらせたのよ。うまくいったから浮かれてたんでしょうね。それで、どうやってもみさ緒を助けないと、って思ってそれで…」


「りよさん…」


「うまくいくかどうかけだったけど、よかった、本当に…。

 さぁ、もうこれ以上、おしゃべりしている時間はないわ。…さよなら、みさ緒…無事に帰るのよ。こんなことで罪滅つみほろぼしになんてならないけど、幸せになって、私の分まで」


「りよさん!」


「早く行って!」


「りよさん! 待って! りよ…さん…」


 暗くなった道をけ戻って行くりよの後姿うしろすがたを見送りながら、みさ緒は泣いた。


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