第30話

 みさ緒に平凡な毎日が戻って来た。

 クレアからの誘いがあると、嬉々ききとして出かけている。



 みさ緒は、クレアとウィリアム夫妻が、二十歳ほども年の離れた自分の心の混乱をかろんじたりせず、真剣に受け止めて寄り添ってくれたことに心から感謝していた。

 二人の言葉がきっかけで、みさ緒は自分がどれほど恭一朗のことを好きなのかを自覚することになった。

 これまで自分の本当の気持ちに向き合うことを避けていたのだと思う。無意識のうちに、傷つくことを恐れていたのかもしれない。


 でも今は、恭一朗を好きだというこの気持ちを大事にしたい、と思うようになっていた。


 たとえ、永遠に恭一朗には届かなくても…。




 …そんな静かな日常のすきをつくようにして事件が起きた。



「ただいま」


「あ…恭一朗様、お帰りなさいませ。お出迎えもせず、申し訳ございません」


 普段のきよなら考えられないことだ。


 見れば、他の使用人たちも集まっている。

 何となくざわついて、落ち着かない空気がただよっていた。


「きよ、どうした?」


「それが…みさ緒様がまだお帰りにならないのでございます。今日はクレア様のところへ出かけられたのですが…。それで今、クレア様のところに使いを走らせたところでございます」


 珍しいことだった。


 みさ緒は一度、帰りが遅くなって屋敷のみんなに心配をかけたことがあった。それを恥じて、それ以来必ず同じような時間に屋敷に戻るようにしていた。




 ちょうどそこへ、クレアのところへ使いに出た者が戻って来た。

 先方では、いつものようにみさ緒を車で送り届けた、と言っているという。


「恭一朗様…」

 きよが恭一朗を見上げた。大きな不安に襲われたようだった。


 恭一朗はうなづくと、みさ緒を心配して集まっている使用人たちに呼びかけた。


「みんな、手分けして屋敷の周囲を探してもらいたい。聞いての通り、みさ緒は屋敷近くまで送り届けてもらっているらしいが、もしかしたら、何かの事情でこの界隈かいわいとどまっているのかもしれない。みさ緒のことだ、遠くに行ったりはしていないと思う。よろしく頼む」


 皆が外に探しに出た後、きよが恭一朗に言った。


「恭一朗さま、警察には?」


「いや…やめておこう。みさ緒にとって面倒なことになっても困る」


 きよは、みさ緒の身許みもとに何かの事情があるようだと薄々うすうす察しているのかも知れない。それ以上何も言わなかった。


 二人とも押し黙ったまま、部屋の中を重苦しい空気が支配していた。


 すると、玄関の車寄せに車がまったかと思うと、クレアが案内されて入って来た。

 かなり慌てているようだ。


「みさ緒に何かあったのですか? 先ほど、みさ緒はもう帰ったかと冴島家の使いの人に尋ねられたと運転手から聞いて…。いつものように車でお送りしたと答えたというのですが、運転手によくよく聞いたら、みさ緒は途中で車を降りたというのです。知り合いの人を見かけたから降りると言ったと。…みさ緒は戻って来ていないのですね。私の家を出てから、もうかなりっています。あぁ、どうしましょう…みさ緒に何かあったら…」


「クレアさん、落ち着きましょう。まだ、みさ緒の身に何かあったと、はっきりしたわけじゃ…」


 そこへ屋敷の周囲を探していた使用人が駆け込んで来た。


 手に草履ぞうりを持っている。

「こ、これ、これはみさ緒様の草履じゃ…」


「あぁっ、間違いない。みさ緒様のですよ。どこでこれを?」

 きよがさえぎるようにして尋ねると、屋敷の角を曲がった少し先のところに片方だけ落ちていたという。


「片方だけ…」

 恭一朗がつぶやいた。


「わかった。その草履を見つけたあたりを中心にもう一回丁寧に探してみて欲しい。他にも何か手がかりがあるかもしれない」


「冴島さん…。みさ緒はいったい…」

 クレアは責任を感じて暗い顔をしている。


「クレアさん、わざわざ知らせに来てくださってありがとうございます。みさ緒の足取りを探すのに大事な手がかりでした。何かわかったら、すぐにお知らせしますから、今日のところはお戻りください。デニングさんが心配されるといけない」


「そう…わかりました。今日はこれで失礼します。冴島さん、どんな小さなことでもいいから必ず知らせてくださいね。必ずですよ。みさ緒が無事でありますように祈っていますから」

 そう言うと、クレアは屋敷に帰って行った。



 とにかく、もう少し手がかりがないと探しようがないのだが、悪い予感がしている。

 片方だけ草履が落ちていたことから考えると、みさ緒は無理やり連れ去られた可能性が高い。


 みさ緒の身に何かあったらと思うと、胸が締め付けられる。


(みさ緒…)


 恭一朗は、自分にとってみさ緒がどれだけ大きな存在だったか…皮肉にもこんな状況になって改めて思い知らされた。


 みさ緒が「知り合いを見かけた」と言って自ら車を降りたこと、そして無理やり連れ去られたらしいということ、この二つは偶然別々に起きたことではなく、最初から一つのものとして仕組まれたことではないのか…。



「きよ、きよ」

 恭一朗は大きな声できよを呼んだ。

 いてもたってもいられない気持ちだった。


「父さんに連絡を…。あ、いや、やっぱり私がしよう」



 琢磨は驚いた様子だったが、恭一朗が心配したようなすじかどわかされたのではないと断言した。


「私たちが恐れている相手は、こんなかどわかしなんて胡乱うろんなことはしないさ。突然襲ってきて、その場で必ず目的をげる。それもごく少人数で。わかるだろう?」


 父はあの事を言っているのだ、と恭一朗は思った。


「すると?」


「相手は誰か未だわからんが、お前が言うとおり、みさ緒が車を降りたことと、拉致らちされたことは一連のたくらみだと考えていいと思う」


「やっぱりそうですか…」


「もし、一連の企みだとすると、随分ずいぶんと気の長い話だと思わないか?みさ緒の行動を調べて、待ち伏せして、しかも、みさ緒の知り合いとやらを仕込むことになる。そこまでさせるのは、何だ? 何が目的だ?」



 恭一朗も、それは疑問だった。一体何のためにみさ緒を連れ去らなければならないのか…。


 冴島家の一員というだけで、襲われるということも否定できない。

 商売は抜いた抜かれたがつねの世界だ。図らずも恨みを買っていることもあるかもしれない。


(みさ緒…)

 どこにいる? 無事なのか? どうか、どうか無事で…


 恭一朗は胸のうちで叫んでいた。

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