第29話

 茶会から数日後…。


「支配人!」

「冴島支配人!」


 社員が興奮した様子で恭一朗の執務室に駆け込んで来た。


「デニング兄弟商会から連絡がありました! 取引条件をめたいので支配人にお越しいただきたいと」


 興奮するのも無理もない。

 デニング兄弟商会は、今まで何度接触しても取引契約の交渉に応じようとしなかったのだ。

 それが遂に取引契約を締結するところまでたどり着いた。



 静かな部屋に、署名をするペンの音がカリカリと響いている。契約を終え二人は握手を交わした。


「冴島さん、意外に思われるかもしれませんが、日本での取引相手は冴島商会に決めていました」


「ありがとうございます。ですが、それはどうして…」


「我が社がロンドンの新聞に、この機械の広告を初めて出したとき、すぐに冴島商会の社員だという人が新聞を持って訪ねてきました。広告に掲載されている機械について詳しく知りたいと言ってね。感激しました。広告は決して大きいサイズではなかったのに、わが社の機械を見つけて関心を示してくれた。それで冴島商会と日本に興味を持ちました」


「そうでしたか…。外国に駐在している我が社の社員は目利きが揃っていますから」


「どうせなら日本に行ってこの目で確かめて取引をしたいと、クレアと共に日本に来ることにしたのです」


 恭一朗は黙って聞いている。


「誤算はクレアでした…。みさ緒から聞いているかもしれませんが、私たちは幼馴染おさななじみでね。子供の頃から想い続けたクレアと結婚した後も、私はずっとクレアに恋し続けているんですよ。離れたくはなかった。当たり前のようにクレアも日本に連れてきたのです。だが、クレアに異国での生活は辛かったようです。ふさぎ込んだまま外出はおろか、口数も少なくなり、クレアから笑顔が消えました。心が病気になった、とでも言ったらいいのか…」


「それは…さぞ辛かったでしょう、デニングさんご自身も」


「冴島さん…。私は自分を責めました。今さら、クレアを一人でイギリスに帰すこともできない。苦しかった…。私は、クレアがこうなったのは日本人のせいだ、と責任が他にあると思い込むことで自分の苦しみから逃れようとしたのです」


「……」


「その結果が、先日の茶会での醜態しゅうたいです。自分のかたくなな態度を変えられなかった…。あなたには申し訳ないことをしました」


「いえ、それは…」


「心無い言葉でみさ緒のことも傷つけてしまったと深くいています。もし、みさ緒が許してくれるなら、またクレアに会いに来てもらいたいと思っているのですが…。みさ緒と出会ってクレアは生き返りました。みさ緒の純朴な優しさが、クレアの心を慰めてくれたのでしょうか、見違えるように元気になった。快活でよく笑う以前のクレアに戻ったのです」


「デニングさん、みさ緒もクレアさんを慕っています。クレアさんに会いたいと思っているはずです」


「冴島さん、ご存じですか? みさ緒はうるしにかぶれたクレアを気遣って、茶会の翌日から毎日、玄関先にきれいな花を置いて行ってくれているのですよ。クレアは花屋が開けそうだと言って嬉しそうに笑っていました」


「それは…いかにもみさ緒らしいことです。それで、クレアさんのお加減はいかがですか?」


「大丈夫です。間もなくすっかり治るでしょう。加納屋にも迷惑をかけてしまいました。…知らなかったんですよ、漆塗りがそんなに手間がかかるものだとは…。茶会の翌日に、店の不手際で迷惑をかけたと言って加納屋が謝りに来ました。不手際はむしろ私の方で返事に困りましたが、加納屋は頭を下げて、びのしるしにと言って漆塗りの美しい手箱を置いて行きました。私はこれからも加納屋を贔屓ひいきにして、せっせと通うつもりですよ」


 デニングはそう言うと微笑んだ。




「みさ緒! また来てくれて嬉しいわ。きれいな花を毎日ありがとう。新しい花が置いてあるのを見る度に、みさ緒に会いたくてたまらなかった…」

 クレアは両手を大きく広げるとみさ緒に抱き着いた。


「みさ緒、私のことを許してくれるかい? 君を傷つけてしまったことを深く悔いている」

 ウィリアムにそう言われて、みさ緒は真っ赤になった。


「許すだなんて、そんな…。あの、またクレアさんやウィリアムさんと、こうして会えるようになって嬉しいです。私、ここで過ごす時間が大好きで…」


「まぁ、みさ緒…なんて可愛いことを…」


「……」


 みさ緒はますます赤くなって俯いた。


「みさ緒は恥ずかしがり屋さんね。みさ緒、この間の茶会で私があげたドレスを着てくれてありがとう。よく似合っていたわ。誰よりも素敵だった」


「あ、ありがとうございます。嬉しいです」




 たわいもない話をしながらお互いに笑い合ったりして、久しぶりに和やかな時間を過ごしていると、クレアが唐突にみさ緒に言った。


「ね、みさ緒。あなたの好きな人を当ててみましょうか?」


「え?」


「冴島恭一朗さん、そうでしょう?」


「…あ、いえ…あの…」


 どう答えたらいいのか…みさ緒が戸惑い顔になると、そこをまたクレアにつつかれた。


「ほら、当たり、でしょ? ウィルはね、茶会の時にみさ緒のそばにいた若い男の人かもしれないって言うの。ね、ウィル」


「少なくともあの彼の方は、みさ緒しか見えていないようだったね」


「あ、祥吾さんのこと…。あの、恭一朗さまも祥吾さんも私といとこ同士で…。だから、そんなんじゃないんです。それに、あの、恭一朗さまには、もう巴さんという決まった相手が…いて…」


 みさ緒の目に涙が盛り上がった。


「え…みさ緒?……どうしたの?…あなたを泣かせるつもりなんてなかったのに…。ごめんなさい」


「クレアさん、いいえ。自分でもなぜ涙が出てくるのか…」

 言葉が続かない。みさ緒はどうしたらいいかわからなかった。



 そんなみさ緒を抱き寄せると、クレアが優しく言った。



「みさ緒……そんなに好きなのね、冴島さんのことが…」


 少しだけ間があってから、みさ緒は小さく頷いた。


「そう…なんだと思います。でも、恭一朗さまにはもう巴さんが…。巴さんは恭一朗さまと結婚するつもりだって…。それなのに私…。優しくしてもらって…それで…。馬鹿なんです、私。恭一朗さまは、妹みたいにしか見ていないのに、私のこと」



 言葉にしたら、また新しい涙が溢れてきた。


「みさ緒…誰かを好きになる気持ちを止めることなんてできっこないわ。それに恥ずかしいことでもない」


「クレアさん、私…」

 それまで自分で打ち消しながら秘めていた恭一朗への想いが一気に胸にあふれた。

 それは、切なくて…甘くて…にがいものだった。




 傍らでじっと聞いていたウィリアムが口を開いた。


「私は男だから、冴島さんの気持ちが少しはわかるんじゃないかと思うんだよ。ねぇ、みさ緒…。考えてごらん? みさ緒と冴島さんの間の小さな出来事の積み重ねが、みさ緒に恋をさせた、というなら、それは冴島さんにも言えることじゃないのかな」


「……?」


「つまりね、冴島さんもみさ緒と同じように、自分の気持ちに揺らいでいるんじゃないかってことだよ」


「ウィル、あなたったら…」



 クレアもウィリアムもどこまでも優しくて、みさ緒の気持ちを正面から受け止めて寄り添ってくれる。


 みさ緒は涙を拭くと、顔を上げて二人に微笑んでみせた。


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