第28話

 恭一朗の手が自分の顔に近づいてくるのをみさ緒はじっと見ていた。目を逸らすことができなかった。


「みさ緒…」

 恭一朗の右手がみさ緒の頬をそっとなでる。

 もう一方の手はいつの間にかみさ緒の腰の辺りに添えられて、みさ緒はゆっくりと恭一朗に抱き寄せられようとしていた。

 みさ緒はただ恭一朗を見つめ続けていた。


 周りのさんざめく人の声も音も聞こえてこない、二人だけが別の世界に入りこんだような、そんな不思議な感覚の中にいた。



「みさちゃん! 恭兄さん!」


 祥吾の呼びかける声にはっとして、みさ緒は現実に引き戻された。

 恭一朗は、と見ると祥吾の方をみて微笑んでいる。

 恭一朗の手は、いつの間にかみさ緒の身体から離されていた。


「あ…、どうしたの?二人とも」

 祥吾が二人の顔を交互に見ている。


「いや…どうした祥吾?」


「みさちゃんが親しげに話していたご婦人が、さっき帰ってしまったみたいだから、大丈夫かと心配になってみさちゃんを探しに…」


「そうか…、私もだ」

 そう言って恭一朗が笑った。


「恭兄さん、みさちゃんを紹介して欲しいってさっきから僕のところに何人もの方が…」

「うん、今日はみさ緒を披露するつもりだ。さ、みさ緒、行こう」



(…さっきのあれは…)


 白日夢はくじつむだったのだろうかと、みさ緒は思った。

 心が通じ合ったと思う瞬間だったのに、確かめることができないまま恭一朗は何事も無かったかのようにみさ緒の前を歩いていた。



 恭一朗がみさ緒を連れて会場の中央に立つと、思い思いに談笑していた大勢の客たちが一斉に恭一朗の方を見た。


「ご紹介させてください。冴島みさ緒です。私の従妹になります。どうかお見知りおきください」


 客の間からは、みさ緒の美しさに「ほぅ」という感嘆の声が上がっている。

 恭一朗に促されてみさ緒も挨拶した。


「冴島…みさ緒でございます。あの…どうぞよろしくお願い申し上げます」


 感嘆と好奇心の入り混じった多くの目にさらされながらも、パチパチと拍手を受けてみさ緒は真っ赤になってお辞儀をした。


大倉巴おおくらともえさんといい、冴島みさ緒さんといい冴島家の血筋は美人ぞろいですな」


「そうそう大倉巴さんも冴島一族でしたね」


母方ははかたが冴島のだそうですよ」


「いずれあやめか杜若かきつばた、いや、今の時代なら大輪の薔薇の競演、と言うのが似つかわしいですかな」


「そういえば、今日は巴さんが来ていないようだが…。たしか巴さんは恭一朗さんの許嫁いいなずけだという話ですが…」


「ところがそうでもないらしい。恭一朗さんの結婚相手はいまだ決まらず、花嫁候補の売り込みが引きも切らないとか…」


「…ところで、冴島みさ緒さんの顔立ちは西洋人風ですね」


「ほら、冴島の先々代、恭一朗さんの祖父という人は豪放磊落ごうほうらいらくな人だったらしいですから…。西洋の女性との間で何かあったとしても驚きませんよ」


 あちらこちらで真偽不明の噂話を面白そうにささやき合っている。醜聞話ゴシップねたは人の口をなめらかにするものらしい。




「みさちゃん、これで儀式終了だね。お疲れ様」


 祥吾の笑顔にほっとしながら

「心臓が飛び出そうって、このことですね…」

 ぐったりした様子でみさ緒も微笑み返した。


「いやいや、これからですよ、大変なのは。ほら、早速…」


 祥吾にそう言われて周りを見るとすでに大勢の人に囲まれてしまっていた。


「え…?」

 想像もしていなかった事態にみさ緒が戸惑っていると、すかさず恭一朗が近付いて来て助け舟を出してくれた。


「みさ緒は未だこのような場には慣れておりません。どうかお手柔らかに」

 にこやかな口調ながら、みさ緒を取り囲んだ人々をみさ緒から遠ざけてくれた。


 そんな恭一朗をみさ緒は頼もしそうに眺めていた。



 かたわらにいた祥吾は、二人の様子にいつもと違うものを感じていた。

 やはり…見間違いではなかったようだ。

 さっき声をかけたとき、恭一朗はみさ緒の頬に触れていた。

 そればかりか、今にもみさ緒を抱き寄せる寸前だったと見えた。

 そしてみさ緒も、されるがままになっていたのではなかったか。


 祥吾は、前にも今と同じような気持ちになったことを思い出していた。


 あれは、たしかみさ緒が同級生に腕を刺されて大怪我をしたときだった。


 みさ緒が襲われたことを知って慌てて屋敷に戻ってきた恭一朗はいつもの冷静さを失っていた。

 一方のみさ緒も、帰って来た恭一朗を見るやその肩にしがみついて泣き崩れた。

 仲のいいいとこ同士だから、ということだけでは片付けられない、二人の間にただよう微妙な感情の交わりを見せつけられた気がしたのだった。



(このままでは恭兄さんにみさ緒を取られてしまうんじゃないか…)

 祥吾は焦りを感じていた。恭一朗が相手では分が悪い。

 何しろ恭一朗は、商才もその容姿も呆れるほど何でも揃っていた。揃い過ぎていた。



「恭兄さん、少しお話してもいいですか?」


 茶会が終わった後、祥吾が部屋の入り口から声をかけた。

 ここは恭一朗が冴島家で仕事をする際に支配人室として使用している部屋だ。


 恭一朗に招き入れられて、祥吾は恭一朗の前に立った。

 

 話したいことがあると自分から言っておきながら、目を伏せて黙ったまま突っ立っている。


「祥吾、話があるんだろう?」


 恭一朗に促されて、祥吾は顔を上げると思い切ったように口を開いた。

「…恭兄さん、不躾ぶしつけですけど、その…みさちゃんのことをどう思っていますか?」


「うん? どうした、いきなり」

 恭一朗は答えを避けるように問い返した。祥吾が話があると言ってきた時から予感はしていた。


「僕、結婚の申し込みをしました」


「……」


「いえ、みさちゃんにではありません。琢磨おじさんに僕の覚悟をお伝えしました」


「そうか…」


「恭兄さん、驚かないんですか」


「いや…驚いたよ…」

 話は、琢磨から聞いていた。その時も驚いたが、本人の口から聞かされると胸にズシリとくる。


「僕のみさちゃんへの気持ちは真剣です。それで、恭兄さんの口から本心を聞きたかったんです。その…僕、見たんです。さっき茶会のとき、庭の隅で、恭兄さんが、その…みさちゃんの頬に手を…。それって、つまり…」


「祥吾、みさ緒はまだ子供だよ。私はみさ緒にとって兄のような立場だ。それに、みさ緒にしても惚れたれたの話なんてずっと先のことじゃないのかな。落ち着けよ、祥吾」


 恭一朗に諭すように言われても祥吾はひるまなかった。


「いや、それは…嘘だ。みさちゃんのこととなると、冷静な恭兄さんが、人が違ったようになるじゃありませんか」


「だから、それは兄として心配…」


「そうですか…。わかりました。恭兄さんが、兄の立場としての振る舞いだと言うなら、みさちゃんに思わせぶりなことだけはしないでください。あの態度は兄のすることじゃないと思います」


「何を…」

 馬鹿なことを、と言い返すつもりが恭一朗は言葉が出なかった。


「みさちゃんは子供じゃない、もう大人です。恭兄さんを見つめていたあの目は女性のものだった。みさちゃんの心をもてあそぶのはこくだ」


「……」

 恭一朗は、自分が追い込まれているのを感じていた。


「……恭兄さんは、琢磨おじさんがすすめてくれる相手と結婚すると言っているそうですね」


 恭一朗は黙って祥吾を見返していた。


「だったら、巴の気持ちに応えてやってください。恭兄さんも知っているでしょう、巴の気持ち。小さい頃からずっと恭兄さんのお嫁さんになりたいって言い続けています」


 巴が恭一朗の婚約者だという噂さえあることも恭一朗は知っていた。


「僕、今までは巴のことを冷やかし半分で見ていました。でも、今は…巴の気持ちが痛いほど分かる。巴にとっては恭兄さんが運命の相手なんです。従兄の僕がいうのも変かもしれないけど、巴ほどの女性は他にいないと思います」


「…知っているよ、巴がいいだってことは」


「だったら…恭兄さんは巴のことを幸せにしてやってください。お願いします。そして、みさちゃんは、みさちゃんのことはどうか僕に任せておいてください。僕が幸せにします」


「そうか…」


「すみません。こんなこと言って…。でも僕の気持ちを、僕が真剣だってことを、恭兄さんに知っておいて欲しかった。みさちゃんのことだけは、いくら相手が恭兄さんでも譲れないことですから。では失礼します」



 祥吾が部屋から出ていくと、恭一朗は大きくため息をついた。


(運命の相手…か)


 若い祥吾の真剣な目がまぶしかった。顔を紅潮させながら必死に訴えていた。

 最後には、恭一朗は巴を、みさ緒のことは祥吾が幸せにする、と決めつけられてしまったが…。



 だが…巴の気持ちには応えられない…。



 巴には幸せになってほしい…矛盾するようだが、だからこそ巴の手を取ることはできない。


 それに、みさ緒に対する気持ちが、もう引き返せないところまで来てしまっているとわかっていた。


 みさ緒は祥吾を選ぶのかもしれない。


 だが、それがみさ緒の幸せなら、みさ緒にとって運命の相手は祥吾なのだ、恭一朗はそう自分に言い聞かせていた。

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