第27話

 みさ緒は涙の滲む目でクレアを見た。

 漆など、この冴島家の庭には植えられていない。他にかぶれるような木もない。この庭で茶会を催すことはよく知られていることで、庭の管理を任されている植五が注意深く手入れしているはずだ。


(漆かぶれだなんて、うかつに口にしてはいけなかったのに…)


 みさ緒は自分の思慮のなさを悔やんでいた。ウィリアム・デニングはまるで人が違ったように攻撃的な言葉で恭一朗を責め立てている…。


「みさ緒、ごめんなさいね。驚いたでしょう? ウィルは仕事相手が日本人となると、人が違ったように意固地いこじになってしまうの。昔は違ったのよ。国を開いてからの日本の発展はすごいと言って、日本にとても興味があったの。日本に来ることを決めたのも、日本人と仕事をするのは面白そうだ、日本を拠点にアジアに商売を拡げるつもりだ、なんて言って…。

 冴島家の茶会も、いつもは案内状が届いてもまるで興味を示さなかったのに、今回は一緒に出席しようなんて言い出したから、てっきりみさ緒と知り合ったことで考え方が変わったのだと思っていたのに…」


「クレアさん、私、冴島商会の仕事には全然関わっていないんです。クレアさんご夫妻が茶会にいらしたのを見て、思いがけなくてびっくりしたくらいです。だから恭一朗さまに指示されてクレアさんに近づいたとか、何かたくらみがあったとか、誓ってそんなことはありません。信じてください」


「みさ緒、もちろんよ。そんなこと疑ったこともないわ。…本当はウィルもわかっているはずよ」


 そう言ってクレアはみさ緒を優しい目で見つめた。


 かぶれた箇所を掻いてはいけないとみさ緒に強く言われて、クレアは濡れ手拭いでかぶれた首を冷やして掻くのを我慢している。


「クレアさん、この庭には本当に漆はおろか、かぶれを起こすような木は植えられていないんです。それで…あの…こんなことを言うと失礼かもしれないですが…何か…思い当たることはないでしょうか?」


 クレアはしばらく考えていたが、ふと顔をあげると

「そういえば、おとといの夜、ウィルからとても素敵な髪飾りを贈られたわ。いつもと違うことといえば、それくらいかしら」



 一方、ウィリアム・デニングはまだ恭一朗に詰め寄っていた。すると、そこへ冴島家の使用人がやって来て恭一朗に耳打ちした。


「デニングさん、あなたに急用があると人が訪ねてきているそうです」

 恭一朗がウィリアム・デニングに言った。


 デニングが不審な顔をしていると、息せき切って近付いて来たのは加納屋と名乗る店の主人だった。


「旦那様、いつもご贔屓ひいきいただきましてありがとうございます。加納屋でございます」

 吹き出る汗を拭いながらデニングに挨拶している。よほど急いで来たのだろう。


「加納屋か。こんなところまで訪ねて来るとは一体何事だ?」


「旦那様、こちらへ」

 加納屋は人気ひとけのないところへデニングを導くと早口で話し始めた。その間にも忙しく汗を拭っている。


「私、漆の仕入れのために地方へ出かけておりまして、店に戻りますと、店の者から旦那様に品物をお渡しした経緯を聞かされました。それで仰天ぎょうてんしまして慌てて旦那様のお宅をお訪ねしたところ、冴島様へお出かけになったと聞いて、こちらまで押しかけて参った次第でございます」


「…それで?」


「旦那様、おととい旦那様がお買い上げになった髪飾りをお返しくださいませ。もちろんお代はお返しいたします」


「どういうことだ?」


「あれは未だ店頭に出す前の品でございます。店の者はそう説明させていただきましたが、旦那様は構わないと言って取り上げるようにしてお持ち帰りになられたとか」


「私は大層気に入って納得して買ったのだ。なぜ返す必要がある?」


「旦那様、漆塗りの品は、完全に乾かしてから初めて売り物として店頭に並びます。漆が完全に中まで乾いていれば、かぶれるようなことはございません。日本国中、どこを探しても店頭に並んでいる品物でかぶれるようなことは絶対にありません。

ですが、おととい旦那様がお持ちになった髪飾りは、まだ乾燥途中のものです。漆かぶれを起こすおそれがございます。そうなっては一大事と、取り戻しに参ったような次第で…」


 デニングは、しばし黙った後、しぼりだすように言った。

「…加納屋、だが今まで買い求めた品でかぶれるようなことは一度もなかった。現に今も私は大丈夫だ」


「旦那様、先ほども申し上げましたように、売り物として並んでいる品でかぶれを起こすことは万に一つもございません」

 さらに続けて、今回の品は幸いにも相当程度まで乾燥が進んでいたと説明したうえで

「漆のかぶれは、皆が同じように発症するわけではございません。人によりまして皮膚が弱かったり、体が弱っていたりで、かぶれる度合いが強くなるものでございます。それに漆かぶれというのは、少し時間が経ってからかゆみや発疹ほっしんが出てくることも多くございます」


 そしてデニングを覗き込むようにして心配そうに続けた。


「奥様は大丈夫でございましょうか?」

 デニングは加納屋の問いには応えず黙り込んでいた。額には汗が浮かんでいる。



 庭の隅でみさ緒がクレアから話を聞いていると、ウィリアム・デニングが怖い顔をして近付いて来た。クレアのそばにいるみさ緒の方は見ようともしない。

「クレア、帰ろう」

 そう一言いうと、クレアの手を引っ張るようにして帰って行ってしまった。


 みさ緒は呆然として二人を見送っていた。

 きっとウィリアムは誤解したままだ。クレアがかぶれたのは冴島家の庭の木のせいだと怒っているのだろう。

 茶会に来た最初からウィリアムは不機嫌だった。みさ緒が冴島商会の意を受けて打算があってクレアに近づいたと疑っていたのが悲しい。親切心でクレアを助けたのだったが、こんなことになって残念で仕方なかった。

 恭一朗には本当に申し訳ないことになってしまったと思う。冴島家の世話になるばかりでなく、これからは、ほんの少しでも役に立てたら…そんな風に思っていたのに恭一朗の役に立つどころか、邪魔をしてしまっている。

 冴島商会がウィリアム・デニングの会社と取引を結ぼうと奮闘していたのに皆の努力を無にしてしまった…そう思うと胸が苦しかった。


「みさ緒」

 近付いて来た恭一朗が声を掛けた。

 デニング夫妻が帰ってしまったのを知って、みさ緒の様子を見に来たのだった。恭一朗は、泣き虫のみさ緒がまた泣いているかもしれないと心配していた。


 案の定、小さい声で返事はしたものの、みさ緒は下を向いたまましょんぼりと立っている。


「みさ緒、顔を上げて」


 みさ緒は顔を上げると消え入るような声で言った。

「……恭一朗さま、ごめんなさい。冴島商会に迷惑をかけることになってしまって…」


「みさ緒、何も謝まることはない。別に冴島商会はみさ緒に迷惑をかけられていないし、デニングさんのことなら大丈夫じゃないかな。庭の木にかぶれたという話も、誤解は解けていると思うが…」

 恭一朗が穏やかに言った。


「…え? 本当に?」


「うん、おそらくね。だから、心配することはないんだよ」


 そう言うと、恭一朗は(わかった?)というように軽くみさ緒の頭をポンポンとして、恭一朗を待っている大勢の招待客の方へ向かって歩いて行った。




 今にも泣き出しそうな顔をしていた…と、歩きながら恭一朗は思った。


 みさ緒のことだから自分を責めていたのだろう。それが、自分の言葉でほっとしたような顔になったのが何とも…愛おしかった。

 

 もう少しみさ緒のそばにいてやりたい…そんな気持ちが恭一朗の心を支配し始めていた。


 

 恭一朗は急に立ち止まると、再びみさ緒の方に歩き出していた。


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