第24話

 気分転換に屋敷の周囲をぐるりと散歩していた道すがら、足を挫いて動けなくなっている西洋人の婦人を助けたことで戻るのが遅くなった。屋敷ではみさ緒の身を案じて、ちょっとした騒動になっていた。


 この一件で、みさ緒は自分に屋敷の多くの人が関わっている、一人で生活しているのではないということを改めて自覚した。冴島家における自分の位置づけみたいなものを自覚したと言ってもいい。


 自分の立場について考える中、みさ緒は恭一朗の子供の頃の話を思い出していた。


 幼いみさ緒を助けたことで、図らずも恭一朗自身が怪我をしてしまった。その怪我の責任を、その場にいた出入の職人や冴島家の使用人が負うことになってはいけないと、頑として怪我の原因についての真相を父親に話さなかった、という話だ。


 自分の行動が周りの誰かに負の影響を与えてしまう可能性を、ちゃんと自覚しないといけないということだと思う。


 昨日、みさ緒が屋敷に帰った時の、きよの顔…。青ざめて唇まで白くなっていた。どんなにか責任を感じて心配していただろう。


 きよに二度とあんな顔をさせてはいけない。

 自戒を込めてそう考えていると、玄関に使いの者が来ているときよが呼びに来た。


「何でも、昨日お助けいただいたご婦人の使いということらしゅうございますよ。主が昨日のお礼がしたいので、是非にも使いと一緒に来ていただきたいと言っておりますということで…」


「そうですか…」

 みさ緒は迷っていた。わざわざご丁寧なことで痛み入るが、お礼なら婦人を家に送ったときに充分に言ってもらった。通りすがりに偶然助けただけの婦人の家に無警戒に行っていいものかどうか……。


 というのも、冴島家とつながりを持ちたい人たちが世の中に大勢いることを先日開かれた冴島家の茶会で目撃したからだ。


 一見いちげんの客は招かれていないから、何かしら冴島商会とつながりのある人たちばかりだったが、それでも恭一朗の周りは黒山の人だかりで、一言挨拶したいと願う人たちで溢れていた。


 昨日助けたお礼だとは言え、よく知らない人の家に出かけて冴島家に迷惑をかけることになりはしないかと、それが心配だった。


 行こうかどうしようか迷いながらきよの顔を見ると、みさ緒の胸の内を察したように、

「せっかくですから行かれてはいかがですか? みさ緒様。見たところ、使いに来た人もきちんとしていますし、滅多なことはないと思います。お近くだってことですから、この屋敷の男衆おとこしに車の後からお供させましょう。みさ緒様のお帰りの時間まで待つようにいいますよ」


 そう言われて、行くことに決めた。ただ、男衆おとこしを待たせるのは気の毒なので辞退して、なるべく早く帰るときよに約束した。




「みさ緒さん、よく来てくれました。ありがとうございます」

 家の中に案内されると満面の笑みで迎えてくれた。ソファに座ったままなのは、足がまだ痛むのだろう。手招きされて隣に座ると、親切にしてもらって本当にうれしかったと、昨日幾度となく言ってもらった礼の言葉を改めて繰り返した。


 その後は、お互い英語と日本語で片言ながらおしゃべりし合い楽しい時間を過ごすことになった。

 テーブルに並べられたお菓子やパン。中にはサンドウィッチと呼ばれる具を挟んだものもある。何でもこういうスタイルをアフタヌーンティーというらしい。楽しい会話の合間に、紅茶を飲み、お菓子をつまみ、サンドウィッチを食べて、と忙しく口を動かしながらまた笑い合って、あっという間に時間が過ぎた。


「あ、いけない。クレアさん、ありがとうございました。そろそろおいとましないと家の者が心配するので…」

「おいとま?」

 クレアが曖昧あいまいな顔をしている。

「あ、帰る時間になりました、と言いました」


 みさ緒が言い直すと、クレアは時間が経つのが早い、とため息をついた。

 それから、みさ緒を抱き寄せると、

「みさ緒、私たちはもう友達です。また会って楽しい時間を過ごしましょう」

 そう言って微笑んだ。



 車で送られて屋敷に帰ると、きよが出迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、みさ緒様。楽しいお時間だったようですね」

「どうして?」

 判ったのかとみさ緒が問うと

「わかりますとも。みさ緒様のお顔が明るく輝いていますから」

 と言ってけらけらと笑った。


 確かに楽しかった。


 今まで親しく話した相手といえば、屋敷の者の外には祥吾と巴くらいで親戚だけだ。

 エドワード医師とも話すが、医師としてとか、英語の先生としてとか役割があってのこと。


 クレアはみさ緒より十歳以上年上ではないかと思う。

 西洋人の年齢はあまり見当つかないが、三十五歳前後に見えた。


 だが、クレアにとってはみさ緒と年が離れていることは問題ではないみたいだ。

 年齢だけではない。西洋人と日本人とか、みさ緒の日本人離れした外見とか、それらすべての“違い”も、そんなこと区別する必要ありますかという態度で、何の壁も作らず親しく接してくれた。

 そんなクレアだから、みさ緒も一緒に笑ったり、おしゃべりしたり、楽しい時間を過ごすことができた。


 委縮していた心がふんわりと暖かい空気に包まれたような気がした。

 いつも自分に自信が持てなくて他人と接するのが苦手なのが嘘のようだ。



「きよ、最近みさ緒は楽しそうだね。どうしたの?」

 恭一朗が尋ねた。

「お友達ができたらしゅうございますよ」

「友達?」

「クレア・デニング様とおっしゃる英国人のご婦人です」

「デニング…」


 恭一朗の表情がかすかに動いたことに、きよは気付かず続けた。

「先日、クレア様が足を挫いて困っていらっしゃったところをみさ緒様がお助けになって、それ以来親しくしておられます。ご主人様は日本でご商売をなさっている方だそうで、確かウィリアム・デニング様とか…」


「そうか…。で、どんな付き合い?」

「専らみさ緒様がクレア様のお宅に伺っています。おしゃべりなどされていらっしゃるようですよ。これまでに三回、行っておられますが、一時間から一時間半くらいでお戻りになられています。三回ともクレア様からの使いが見えて、みさ緒様を送り迎えしてくださっています」


 みさ緒の世界が広がることはいいことだね、と言いながら恭一朗にはある懸念けねんがあった。


 ウィリアム・デニングといえば、Dening Bros. & Co.デニング兄弟商会の社長で、冴島商会が取引を求めて交渉中の相手だ。


 同社が独占的に販売している機械を冴島商会で扱いたいと半年前からアプローチしているのだが、全く応じてくれない。条件に不服があるとか理由が具体的に判れば交渉の仕様もあるのだが、その辺りが何とも不明でとにかく手を焼いている厄介な相手だった。


 クレアがその夫人だとすれば、冴島一族であるという理由でみさ緒を面倒なことに巻き込む恐れがある。


(みさ緒を泣かせることになっては困る…)


 そこまで考えを巡らせると、ふと我に返って恭一朗は苦笑した。


 厄介な交渉相手なら、みさ緒を利用して夫人を動かし、からめ手から攻めるという手もある。

 冴島商会としては、何としても取引したい相手なのだ。


 だが、まず頭に浮かんだことが(みさ緒を泣かせたくない)ということだった。

 我ながら、甘い…か。


 恭一朗は、また苦笑いをすると、きよにコーヒーを入れるよう頼んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る